閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

643 大きにある

始、

 落ち着いて考へると、とんかつをあてにして呑んだ記憶が無い。別に厭ふわけでもないのに。鯵フライやミンチカツで呑んだことはあるのに。とんかつと聞いて聯想するのは、ねり辛子と濃いソース、それから千切りのキヤベツとお味噌汁とたくわんに白いごはん…詰るところ"とんかつ定食"であつて、とんかつだけが乗つたお皿が、はいお待ち遠さまと出されるのはどうも、想像が六づかしい。

 

壱、

 とんかつのご先祖を辿ると、その中のひとつにシュニッツェルがある。原意は薄切り(とは云つても、しやぶしやぶのやうな紙つぺらではない)の肉。転じて薄切り肉のカットレット。仔牛が本來。七面鳥や豚肉も使ふさうだ。オーストリー…ウィーンの料理と云はれるが、原型はイタリーの北部にあるらしい。

 伝説のひとつを信じるなら、この料理をウィーンにもたらしたのは、ヨゼフ・ラデツキーだといふ。知らない名前が出てきたなと思はれるでせう。十八世紀終りから十九世紀前半にかけての伯爵で軍人。肖像画を見ると、髭…クチヒゲを指す。ホホヒゲだと髯、アゴヒゲは鬚の字を宛てる。酒場での話の種にお使ひなさい…が中々立派で、目つきと口もとに軍人らしい頑固さが感じられる。血腥さうな話題を厭がるこの手帖でわざわざ名前を挙げたのは、ヨハン・シュトラウス一世がかれを讚へた『ラデツキー行進曲』を大きに好むといふ以上の理由は無い。

 そのシュニッツェルは仔牛の肉を叩いて伸ばして、揚げ焼きにする。天麩羅のやうなディープ・フライではない。油をたつぷり用ゐてじつくり揚げるのは、幾つもの意味で贅沢…近代的な調理法なのだとは、改めて知つて損はない。尤もそれはシュニッツェルの値うちとは別である。實際、"ウィーン風仔牛の揚げ焼き"はうまい。もつと気らくに食べられればいいのにと思ふが、案外と機会に恵まれないのは不思議である。下拵へが面倒なのだらうな。

 

弐、

 こんな風に云ふと、とんかつは面倒ではないのかと反論が出るのは容易な予想で、確かにその通りだと思ふ。それを意識しないのは、とんかつが我われにとつて馴染み深い食べものになつてゐるからで、併し何故さうなつたのか。我が國で大つぴらな肉食が再開された明治の、最初期の肉と云へば牛肉が主だつたと思ふ。牛鍋屋の大流行がささやかな證。また内田百閒が幼少期、滋養の藥として牛肉を食べたのも、間接的な證拠になるだらう。あのひとは四ツ足の穢れを甚だしく厭ふ造り酒屋の坊ちやんだつたから、匂ひ消しに蜜柑を幾つも食べさせられたといふ。

 ここで我われは一橋慶喜…後の徳川慶喜を思ひ出したい。若年の頃から豚肉を好んだかれは、世に出ると"豚一どの"なんて惡くちを叩かれた。一方かれの父、烈公水戸斉昭が牛肉牛乳を愛好したことは揶揄ひの対象になつてゐないのと対照的である。この國の養豚史がいつ頃まで遡れるのかわたしは知らないが、慶喜の当時は惡くちが成り立つ程度に珍しい嗜好だつたと考へられる。それが明治が進むに連れ、のしてきた背景には何があるのだらう。

 単純な理由では、薩摩人が大挙して江戸改メ東京にやつてきたことが考へられる。薩人の食生活は、肉食豚食への抵抗感が薄かつたらしい。郷党で料理屋に上がり込んで、豚肉と焼酎を寄越せと無理を云つた可能性はなからうか。もうひとつは"山くぢら"とも"牡丹"とも呼ばれた獸肉…詰り猪肉。猪を家畜化したのが豚だと、当時はたれも知らなかつた筈で、何度か(我慢して)食べ續けるうち、何だこれは藥喰ひの親戚ではないかと気がついて、まあまあ食べられなくもないと評価を(徐々に)改めたのではないかとも思ふ。

 

参、

 勿論この時期に、西洋料理の流入が重つてゐるのは念を押すまでもない。もつと云へば、開國に伴ひ清國人も労働者として港に入つてきたから、そちらの方面からも、従來と異なる調理法が入つてきただらう。東坡肉といふ豚肉料理の傑作を生んだ國の人が豚肉を好まなかつたとは思へない。幕末開港から明治期に掛けての半世紀余りほど、日本の食べもの…材料も調理の方法も手順も…が烈しく変化した時期はそれ以前に無かつた。簡単に書きはしたが、千年余りの間、緩慢で確實な変化を遂げた料理があつて、それを受容れるには(作る方も食べる方も)苦辛だつたにちがひない。妥協と応用と転化、工夫と失敗が重なつた中で生れた食べものの群のひとつにとんかつがあつた。

 かう書くと何やら作り話めくけれど、有り体に云へばとんかつは、薄めの肉を挙げ焼く手法を天麩羅に応用した牛かつを、厚切りの豚肉に転用したのがとんかつであつた。それは地道な試行の繰返しだつたに過ぎず、劇的でも何でもなかつたに相違ない。併しその地味な試行が何年も何遍も繰返されたから、とんかつはシュニッツェルの出來損ひでなければ天麩羅擬きでもない、洋食の代表格まで上り詰めたと見て、大きな異論反論は出ないと思ふ。我われはご先祖に感謝しなくてはなるまい。但しひとつ、文句を云ひたい。

 

肆、

 いや文句を附けるのは筋違ひなのだ。それはちやんと自覚してゐる。してはゐるが、矢張り云ふしかないとも思はれるので云ふと、とんかつを育てた我われのご先祖は、残念なことに"お酒…酒精とあはせる"ところまで、目を向ける余裕を持たなかつた。正確には持てなかつた。止む事を得ないのである。明治の酒精と云へば詰るところ日本酒か焼酎で、葡萄酒もヰスキィも、西洋料理と共に入つてきた。我らが麦酒だつて例外ではない。それで西洋料理人や洋食屋の親仁に、酒精との組合せを考へなかつたのはいかんと云ふのは、難癖以外の何ものでもあるまい。何とあはすのが旨いかが定まるには、とんかつ史はまだ短いのだから、そこは我われの役割なのだと考へるのが望ましい態度ではなからうか。

 上の事情もある所為か、漱石先生のお弟子はカットレットを食べつつ、清酒を呑んだといふ。不思議だなあと思つて、手元にあつた本を捲つた。その本によると、当時のお酒は現代と比較にならないくらゐ辛くちだつたとあつたから、漠然と納得した。きつとからい葡萄酒を聯想したのだと思ふ。天麩羅と白葡萄酒なら似合ひだらうし。尤も百閒先生は後に、カツレツを三枚も四枚も平らげながら、麦酒を半打も呑みやがると揶揄はれもしたと自分で書いてゐるから、どこかで宗旨替へをしたらしい。

 

伍、

 伝統と先達を重んずるなら、詰りとんかつにあはすのは、ごく辛くちのお酒か麦酒といふことになる。何と云ふか、面白みの無い撰択とも思へるが、変り種を自慢する為にとんかつを食べるのは本末の転倒である。素直は大切なことだ。そこで考へたいのは、我らの眼前に登場したとんかつを何で食べるかといふ点になる。

 当り前の聯想ならウスター・ソースかと思ふ。併しウスター・ソースの味は(残念ながら)酒精全般に似合はない…似合ひにくい。この味附けで呑むとしたら、辛子を利かしたサンドウィッチくらゐであらう。特別急行列車で、罐麦酒と一緒にやつつけるには、最良の組合せではあるが、わたしは日常的に特別急行列車に乗らない。ぽん酢や醤油を垂らす食べ方もある。どちらも鯵フライからの転用。この場合だと焼酎ハイがよささうだ。ただとんかつの脂つこさと、ぽん酢または醤油の相性はどうだらう。白身魚だから適ふ組合せなのだとも考へられる。

 参考にするなら鯵フライより寧ろ、鶏の唐揚げに目を向けるべきだらうか。揚げたてなら兎も角、マーケットで買つた唐揚げには、塩を振つたり、檸檬を搾つたりする。あれはとんかつでも有用…"定食"には似合ふまいが…にちがひない。檸檬なら麦酒(檸檬は意外とひつこいからね)、塩だとお酒に適ふ感じがする。経験的に云へばお酒に適ふ食べものは大体、葡萄酒でもうまいから(お刺身だのの生もの相手はちよいと六づかしい)、とんかつと塩と葡萄酒もいけると思ふ。まあこの場合の葡萄酒は、赤でも白でも野暮に限るだらう。

 

終、

 何種類かの塩に檸檬

 麦酒とお酒と葡萄酒。

 ここまでは絞りこめた。となれば、その中で最良の組合せは何だと云ひたくなつてくるが、この稿では踏み込まない。口に適ふ適はないは、諸々の條件…体調だけでなく、天候や気温や風の吹き具合…が絡むもので、これだと決めるのに意味は無からうといふのが理由のひとつ。更に云へば、とんかつと共に上述の全部を用意し、伯爵や一橋卿や漱石先生のお弟子と、ああでもなければかうでもないと食べ且つ呑んで論議する方が愉快にちがひない。

 

余、

 尤もそれで、矢張りとんかつは定食に限ると、話が落ちる可能性はある。大きにある。