閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

692 残照好み

 一日の中で好きな時間帯がありますかと訊かれたら、夕方と応じるのに躊躇はない。陽が落ちて、落ちきらない…薄つすらと晝があつて、夜に移らうとする残照の辺りがいい。気の早い路地では、ぽつりぽつりと灯りが点つて、何と云ふのか、自分ひとりの時間がやつてきた心持ちになれる。それが嬉しいのかと思ふひともゐる筈で、さう云はれたら寂しくなる時だつてあるなあと思ひはするが、市井の一老人であるところのわたしにとつて、残照は今から呑める時間の始りの象徴である方が大きい。なんだ詰りそこかと笑はれると思ふ。叉結局のところはさうなのは認めたい。尤もお酒の代りにごはんとお味噌汁とお漬物や、ステイクにベイクド・ポテトを当て嵌めても不自然ではなく、社會人會社人ではない、素の自分に戻れると話を広げてもいい。ちつと大袈裟か知ら。

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 廿年くらゐ前、呑み助仲間と酒席を共にする際には、午后五時からといふ了解があつた。些末な形式主義と嘲笑つてはいけない。多くの場合、些末な形式主義が碌でもないの知つてゐるが、午后五時に卓を囲み、乾盃の麦酒を呑んで、おもむろに始める流れは寧ろ決り事…儀式だつたと称したい。別の呑み助だとそれが、午后六時から六時半くらゐと曖昧になつて、先着した方が一品か二品、註文までしておく流れ、決り事、儀式になつてゐる。礼儀作法…プロトコールに縛られ(詰り些末な形式主義に陥)るのは御免蒙るとしても、上に挙げた程度なら、そこも含めて樂みになる。

 思ふにプロトコールは、その樂みの為に發生したのではないか。もつと遡れば宗教といふより呪術的な儀式…神さまを讚へる行為まで辿り着く。嘘だと思ふひとはホメロスを何ページか捲ればいい。屡々ある酒席では、それが大体同じ流れになつてゐると気附く筈で、火を熾して仔を産む前の見事な牝羊を屠り、肉を脂で巻いて焼き、細かく切り分ける場面が何度も描かれる。この羊が神々への捧げものなのは云ふまでもなく、切り分けられた羊肉は云はばお下がりであつて、そのお下がりで腹を満たすまでの順序が定められてゐただらうとは、想像に難くない。

 我われのご先祖にも、直會(ナホラヒと訓む)といふ似た儀式があつた。焔と共に雉や猪や干物、綺麗な織物や紐、めでたい唄と踊り、それから白酒(ここはシロキと訓みたい)を神さまへと捧げた後の酒席、くらゐの意味。令和の現代に残つてゐるものかどうか。伊勢や出雲の大社の裏手で、年に一ぺん、こつそり大宴會が催されてゐたら、愉快だと思ふ。神罰があたるぞと咜られるやも知れないが、尊崇をもつて神さまに仕へる人びとの、偶さかの贅沢で罰を下すほど、神さまの器は小さくないでせう。仮にどなたか一柱が怪しからんと憤慨しても、別の一柱がまあまあいいぢやあないかと宥めてくださるにちがひないよ。

 さて些か強引に云へば、ギリシアの英雄たちと我われのご先祖の神事と、過ぎた昔の酒席には灯りが共通する。前二者は焔の、最後は文明のもたらした明るさといふちがひはあるが、兎にも角にも儀式とそれに伴ふ酒宴は、夜が現實にやはらかな布を覆ひかけた後に始まると云つていい。兵士も巫女も農民も、準備を進めながら陽が落ちるのを待ち、心が浮き立つただらう。神事儀式は厳粛に行はるるものだと眉を顰める考へ方は間違ひでないとして、厳粛と愉みが両立しないとも云へない。年に何度もない儀式の厳粛に、幼児が誕生日に眞面目な顔で蝋燭の火を吹き消すやうな樂みを感じても、不思議とは云ひにくい気がする。矢張りここにも火…灯りがあるな。さう考へると、夜にむかふ時間、夜に導かれた灯りに気を取られるのは、文明と文化が分かれてゐなかつた頃の記憶…その欠片ゆゑかも知れず、であるならわたしが夕方、残照を好む事情も納得がゆく。