閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

268 何もしない

 北関東の某所に行かうと思ふ。

 その某所には以前に足を運んだことがある。

 足を運んだ時に好感を抱いたから再訪したいので、某所に住むひとは胸を張つてもらひたい。

 自慢出來るかどうかの保證はしないけれど。

 新宿を11時前に出るとお午過ぎに着到する。

 2時間くらゐだらうか。

 車内(勿論汽車である)で罐麦酒と幕の内弁当をやつつけるには…おにぎりにお漬け物やサンドウィッチにピックルスだつてかまはない…十分な時間と云つていい。

 ではその某所に何か目的があるのかと云ふと、何もない。

 名所旧跡が無いのではないが、強く興味を惹かれはせず、相応の歴史を誇れる地域ではあるが、都市としては比較的新しくもあつて、詰り戰争で焼き尽された土地である。

 我われには一体、訪れる土地が、旧いままに残つてゐることを珍重する傾向があつて(京都や奈良を思ひ浮べればいい)、さう考へると、観光の点から某所は不幸と云へなくもない。

 併しある町の云はば魅力は観光的な視点に限られるわけでなく、では外に何があるのかと訊かれたら具体的に云ふのは六づかしいけれど、漠然とあすこはいいと思へる町はある。

 甲府をその例に挙げるのはどうだらう。

 開府以來何百年と云ひ、またそれは事實でもあるが、町並みはすつかりモダーンになつてゐて、さういふ積み重なつた歴史を見つけるのは(驛前に信玄公の像はあるが)困難に属する。

 だからと云つて甲府が感心出來ない町とは思はれず、そんなら何がいいのだと訊かれても矢張り返答は六づかしい。

 ただ兎に角一晩ゆつくりと呑み歩いて、甲州の葡萄酒とハムとソーセイジとベーコン、それから甲府人との莫迦ばかしい雑談で醉ひたいと思ふ(これは近い将來に断然やつつける)から、さう思はせる甲府はいい町なのである。

 かう書くと何だ呑みたいかどうかが基準なのだねと云はれさうで、いや確かにその指摘は正しくもあるが、では呑みたいと思へるかどうかがある町への好感を持てるかどうかの基準にするのが、名所旧跡や古刹があるかどうかを基準にするのとどこが異なるのだらう。

 皮肉でも何でもなく、呑み喰ひが我われの基である以上、うまいものがある町に好感を抱くのは寧ろ当然の気分であらう。

 それが葡萄酒やハムやソーセイジやベーコンだけでなく、お酒でも烏賊の塩辛でも鯖の干物でも、もつと俗に麦酒や鯵フライやコロッケや鶏の唐揚げや餃子でも気にしなくて宜しい。

 ここまで進めたところで、最初に何の目的もないとしたのは、もしかすると誤りかも知れないと気がついた。

 呑み喰ひの旨さや愉快は、どこでたれと何をやつつけ、或は平らげるかで大きく変るのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも経験のあるところかと思はれるが、どうやら今のわたしは、その中の“どこで”を重く感じてゐるらしい。

 であれば、そこにある名所旧跡でも神社佛閣でもなく、或は珍しいお祭りや花やかな催しでもなく、ただその町に行くことそれ自体が目的であつたとしても、そこに不自然は無いと云へる。