閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

535 盆栽小鉢

 小鉢や小皿に盛られた料理は旨さうに思ふ。三種類くらゐが纏めてお盆に乗つて出されると、贅沢が詰つた感じがして、嬉しくなつてくる。若い胃袋には奨めにくいけれど、それは若い胃袋の所為だから、わたしにはどうにもならない。

 かういつた供し方は外ツ國にもあるのだらうか。点心は近さうに思ふが、焼賣と春巻と海老がそれぞれ小皿に乗つて、同時に出てくるわけではない。西洋に目を向けても、オリーヴの實と無花果とサーディンが、手を取り合つて登場するとは考へにくく、どうもこの盆栽趣味風の手法を悦ぶのは、我が邦のある年齢層以上に限られるのではなからうか。巴里の外れでbonsaiスタイルと銘打つて出したら、ジャポニスムかぶれの佛人から褒められさうな気もする。

 ぢやあ何を出せばいいかと云ふと、格別の決りもなく、塩つ気のきついやつがひと品あれば嬉しいが、無くてもこまらない。ちまちま纏まつた贅沢を一望に眺めることを思へば、色めは異なつてゐる方が好もしいか。たとへば菜つぱの緑に大根の白と鮭の紅いろ。色や姿の取合せを樂みながら呑むのが愉快に感じない道理は無いといふものだ。

 その盆栽…訂正、小鉢小皿で供されるおつまみで何を呑むかと頭を悩ます必要はなくて、矢張りお酒が望ましい。麦酒や焼酎に適はないと云ふのは些か乱暴だから口にしないとして、ああいふ酒精には、ミンチカツや焼き餃子や豚肉の煮込みをどんと出してもらひたい。お酒に次ぐのは葡萄酒だけれど、葡萄酒に適ふおつまみの殆どはお酒にも適ふ。更に小鉢小皿とあはせた時の見た目まで考慮すると、葡萄酒は一歩、いや半歩及ぶまい。

 かうなるとどんな銘を撰べばいいんだと思ふひとが出さうだが、気に病まなくても、当り前のお酒…詰りお米と麹と水で醸してあれば、あまくても辛くても、お好みにあはせればいい。醸造アルコールを添加するのが惡いとは云はない。但しあの技法は、味はひや香りを調へる…ヰスキィで云ふブレンドに近い…のが目的。上手が醸れば、廉でうまい、呑み助が目を離せないお酒になるのけれど、中々六づかしからう。

 なので気に入りの銘柄があれば、それを呑めばいい。無ければ、或は判らなければ、味香の調へよりぐつと簡単で

 「この"おつまみ盛合せ"に似合ふお酒は何ですか」

と訊けば済む。そこで、口当りのかるいやつとか、ずつしりくる感じとか、花やかな香りが好きとか、自分の好みを大まかに伝へられればもつといい。判らなければ教はるのが一ばんで、わたしはさうしてゐる。

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 最近で云へば[天賦](珍しい薩摩の銘柄。訓みは"テンブ")や[手取川](苦手な筈の山廃仕込みなのに)が出色だつた。とは云ふものの、ここでややこしく、または面倒なのは、[天賦]や[手取川]に限らず、近年の佳く出來たお酒には、自身の味で完結する傾向がある。旨いのは悦ばしいとしても、肴から距離のある旨さではこまる。異論があるのは判るけれど、佛人がチーズ抜きの葡萄酒、獨人ならソーセイジ無しの麦酒を赦さない(だらう)のと同じく、倭人はお酒に肴を尊びたい。

 その一方、お酒には豪勢な料理(たとへば満漢全席)を求めない性格がある。侘しい食べものが似合ふと云つては乱暴だが、塩梅を心得た焼き魚や煮物にお漬物で満足出來るのも事實の一面であらう。気に入りのお酒があり、小皿に〆た鯖、小鉢で焚いた厚揚げに酒盗(ソーセイジにチーズ、それからザワークラウトでも)がちまちまと用意されて、頬を緩めない呑み助はゐないだらう。さういふ盆栽(ここはbonsaiか)趣味の呑み屋が様々あれば嬉しいが、意外なくらゐに見当らない。手間の割りに儲けを出しにくいとは考へられるが、その手間がちやんとしたものなら、適切な対価に否やの聲は出ないとも思はれる。それとも盆栽好みを悦ぶのは、わたしのやうな年寄り世代なのだらうか。