閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

475 隧道

 吉田健一に『旅』と題された短い随筆がある。要するに旅行に出たいと書いてあつて、末尾に"旅行がしたい"とあるのだもの、わたしの要約は間違ひでも乱暴でもない。かういふ一文は非常に迷惑で、こちらも旅行に出たくなる。出無精な身なのに。

 そこで甲府に行かうと考へる。考へるだけなら家に篭つたままでも自在である。まことに具合が宜しい。

 とは云へ令和二年のこの時期に甲府へ足を運んでどうするのだといふ疑問が浮ばなくもないが、さういふことを気にしだすと話が進まない。兎にも角にも行かうと考へる。甲府とその近辺で連想するのは、大小様々の葡萄酒藏と県立美術館のミレーで、それ以外が出てこない。何べんか、または何べんも行つた記憶があるのに、我ながら情けない。これにはあつちへ行くのは勝沼(葡萄酒藏)や小淵沢(ヰスキィの醸造所と酒藏)が主な目的になつて、甲府自体は寝床で終つて仕舞ふ事情が大きい。勿体無い。甲府驛のすぐ近くにサドヤがあるのを思ひ出したが、その辺りは後廻しにする。

 甲府へ行くには新宿から中央本線特別急行列車に乗る。あずさ號かかいじ號。各驛停車や高速バスも使へなくはないが、着到までの間も呑むのは当然なので、さう考へれば特別急行列車が最良の撰択になる。大体一時間半とかそれくらゐだから、罐麦酒で鯵の押し寿司でも平らげてから、葡萄酒の小壜でチーズをつまむのに丁度よい。高速バスでも呑み喰ひは出來ると思ふが、それだと車醉ひしさうなのが困る。矢張りあずさ號か、かいじ號に乗らう。

 秋になると甲府(の方向)へ足を運ぶならはしが何年か續いた時期があつて、その時は新宿驛を午前八時に發車するあずさ五號に乗つた。甲府驛着が九時半頃。甲府驛を起点に葡萄酒藏へ行くのなら、一ばん具合が宜しい。ただこれだと乗る前に開いてゐる店が實に少ないのが難点。新宿驛構内で買ふか、コンビニエンス・ストアに寄るかしか手がなくて、どうも詰らない。マーケットで買つておいてもいいが、家からわざわざ持ち出す形になるのが気に入らない。ああいふのは前夜から鞄に入れるとまづくなりさうな気がされる。

 それでふたつの方法が考へられる。第一は朝九時發のあずさ九號に乗ることで、甲府驛への着到は午前十時半過ぎ。或は九時半發のかいじ十一號だつたら、十一時十五分頃の甲府驛着到となつて、これなら"居酒屋 中央本線"の肴撰びに時間の余裕が持てる。他方夕方の便を撰ぶことが第二に考へられる。十五時半發かいじ卅五號なら十七時過ぎに、十六時發あずさ卅七號は十八時過ぎに甲府驛着であつて、こちらだと着到後、ホテルに荷物を投げ出して、速やかに甲府の町で呑めるのが有難い。

 甲府驛の近辺にうまい呑み屋があるのかどうかは知らないが、以前の記憶だと細い路地に暖簾があつた。狭い場所の小さな店で商ひが成り立つなら、そこは少くとも惡くない筈で、またそこが繁盛してゐれば甲府人は呑み喰ひに熱心だと推測が出來て、であれば甲府の呑み屋に期待してもかまふまい。もしそれが廉で済へば甲府は相当に文化的な土地だと云ひきつていい。併し呑めば醉ふ。醉ふと眠くなる。投げ出した荷物のあるホテルに戻つて眠ればよい。

 起きてからやうやく、後廻したところに戻れて、詰りサドヤである。甲府驛から十分も掛からない場所にあつて、見學が出來ればそれでよく、さうでなくても気にしない。確かレストランが併設されてゐるから、そこでお晝を食べてから新宿に帰つてもよく、ミレーを…正しくはお針子とポーリーヌとマリヤ様を観に行くのもいい。前夕に着到したとすると、サドヤで終るのは勿体無いから、もう一泊する。尤も勿体無いと考へるのは余り感心出來た態度とは云へない。折角だから勿体無いからとあちこち手足を延ばすと、愉みより疲労を重ねることになりかねず、わたしは別に疲れる為に甲府へ行きたいわけではない。一方で前夜に気に入つた、気になつた店が何軒かは出さうな気もされる。だつたら最初から二晩泊まると決めておく方がよささうでもある。

 とここまで書いて要は呑むだけの話で、甲府が宇都宮になつても、八王子であつてもかまふまい、と云はれたらその通りだから反論が六づかしい。反論の必要があるかどうかは措く。普段の生活には関らない都市…土地で呑む味は、普段の生活に関らない分だけ異なるもので、そこに着到するには、着到するまでの時間がある程度掛かる方が好もしいし、そこには大袈裟に思へる舞台装置が慾しい。中央本線特別急行列車がその舞台装置の役を果す。『雪國』の冒頭

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」

とある"長いトンネル"が、ここで云ふ特別急行列車そのもので、そのトンネル…隧道は長い方がよく、八王子や宇都宮ではその樂みがすつくり削られる。併し實は上のあずさ號やかいじ號でも十分に長いとは云ひかねて、後一時間くらゐは掛つてもいい。ただそれだと持ち込む酒肴では些か足りなくなりさうである。そこでバーの車輛を継ぎ足すのはどうだらうか。沿線の葡萄酒藏や醸造所の銘柄を提供すれば、宣伝にもならうし、こちらはこちらで予習が出來る。つまみはチーズだのピックルスだの燻製だので収めれば、お皿に乗せるだけで済むから、バー車輛のひともたいへんではあるまい。どうも吉田健一から連想の隧道を潜るうち、ミレーもサドヤもどこかへ行つて仕舞つたらしい。なので甲府行については別の機会に改めて考へるとする。