閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

369 一筆書きの裏のところ

 文章を書く時、わたしのやうな素人だと、その前に何かしらの縛りを附ける方が書き易い。主題を持つて書くといふことではなく、いやそれも含めて自分に條件を課すので、長月の條件は

「短く、話を逸らさず」

であつた。ただそのままだと、意地惡な魔女が幼気ない少女を食べられたくなければ、何々を見つけてきなさいと脅しつけるやうな感じがされた。それは困る。わたしは魔女でなければ少女でもない。仮に少女だつたら頭のいい梟や勇敢な牛が救けて呉れるだらうが、今のところさうなる望みは持てない。

 なので“一筆書き”と呼ぶことにした。

 文字数が半分になり、お蔭で締めつけられるやうな感じも半減した…気がする。

 併し“一筆書き”でよかつたのかどうか。何で讀んだか忘れたが、馬上で高らかに笑ふ森鷗外の姿を描いた一文があつて、それを引用した筆者は“軍医総監森林太郎の美事な一筆書き”と絶讚してゐた。記憶に残つてゐるのだから、絶讚した筆者の讀み方に信頼をおいてゐたのは間違ひない。それでわたしが“一筆書き”といふ言葉を使つて、いいものだらうか。と悩みまた苦しんだのなら恰好もいいのだが、實際のところは、まあかまはんだらうで済んだ。文學への敬意も何もあつたものではないと叱られたら頭を下げるけれども、元々が魔女の呪ひを誤魔化す便法なので、叱られても気にはならない。

 そこで叱られるのは気にせず書き出すと、ひどく書きにくい。だからびつくりした。長くて話が逸れる…幾筆書きになつてゐたか、さういふのに馴れてゐた、ゐるからで、毎回馴染んだ書き方をしさうになり、我慢するのが面倒でならなかつた。一筆書きには一筆書きの技術があつて、あるのを知らなかつたわけではないが、結果として眺めると、どうやらそれを非常に軽んじてゐたらしい。軽んじたと云ふと流石に耻づかしい。なので理解が(大きく)足りなかつたと云はう。これもまた魔女の呪ひへの対策で、その呪ひを忘れて後、懲りずに挑まうとする含みになり、またそれが再び失敗つた時も、予防線になる…なるかも知れない期待が持てる。

 

 かう云ふ以上、わたしは書く行為そのものを止める積りではなく、次回からはまた別の呪ひ…ではなかつた縛りを附けることになるだらう。讀んだけれどそれが何なのか解らない。さう我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は呟くかも知れないが、それはこちらの胸の内、裏のところだから、顕かにならなくたつてかまはないのである。