閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

611 吝かではない納豆

 愛好者がゐるのは知つてゐるし、それを止める積りも非難する積りも無いのだけれど、どうしたつて食べられない…食べたくないのが納豆で、齢を経て好ききらひが少くなつた今に残る数少い例外と云つていい。

 「食べず嫌ひはいけません」

と咜られさうだが、二回か三回は口にしたことがある。

 初めて食べたのは小學生の頃だつた。両親が卵かけごはんに混ぜてゐたのを見て、眞似をしたのだつた。不味かつた。何年か過ぎて、幕の内弁当だつたか何かの隅に、挽割り納豆が入つてゐて、気が附かずに食べた。矢張り不味かつた。だから食べず嫌ひではない。とは云へ繰返すと、たれかが食べるのを止めたりはしない。食べものへの嗜好はそれぞれだから、文句を附ける筋でないのは解つてゐる。わたしが好まない…いや厭ふのに文句を云はなければ、公平は保たれる。

 

 何となく調べると納豆、またはそれに似た食べものの歴史は幾らでも遡れるらしい。煮た大豆と稲藁が、適当な温度と湿度の中で出合へば、それらしく醗酵するものね。稲作が日本に伝はつたのがざつと三千から三千五百年ほど前…縄文期の終り頃(大豆の栽培は更に数百年ほど早い)とすると、その辺りから既に原型はあつたのかと思はれる。

 尤も納豆作りは話が別になる。十一世紀前半に成立したらしい『新猿樂記』にある"貪飯愛酒ノ女也"で、これは"食べることとお酒が大好きな女"くらゐの意味。その女が好んだ肴に見られる納豆が、我が國の文献上、一ばん古いと目されるらしい。著したのは藤原明衡。式家の末裔。明衡の頃には往時の威勢は失はれてゐて、中級が精々の貴族であつた。とは云ふものの、貴族が俗な話題を書き記してゐるのは、何となく可笑しみがある。ここで『新猿樂記』以前、納豆を作る技術があつたのは確實だと判る。

 

 明衡より少し後を生きた武将のひとりに源義家がゐる。河内源氏の頭領。八幡太郎の異名の方が有名かも知れない。奥羽で暴れたこと…前九年後三年ノ両役…でも知られる。

 いきなりこの名前を挙げたのにはちやんと理由がある。父に従つて京都から兵を率ゐた義家は北上の際、軍馬の餌に煮大豆を用意した。その煮大豆は藁苞に入れ、軍馬が自分で運ぶ。煮大豆と藁に馬の体温が合はさるのだから、醗酵しない方がをかしい。ただ義家も義家の兵も、醗酵のメカニズムは知らなかつた筈だから、開いた苞の豆が糸を引くのを見て

 「ありや。これあ、傷ンどるがな」

きつと驚いたらう。その"傷ンどる"煮豆を馬が平然と、寧ろ喜んで食べる様を見た兵どもは更に驚いたにちがひない。

 「こらア大将に報せンならン」

それを聞いた八幡太郎、良くも惡くも剛腹だつたらしい。馬が喜んで喰ふくらゐやつたら、儂らが喰ても平気なンとちやふか。兎に角つまみ

 「旨いがナ、これ」

感嘆の聲を上げたといふ。度胸があるのか無神経なのか。ここは豪傑だなあと呟いておく。伝説だとこの感嘆は"なんと美味なる豆かな"…"豆"は"トウ"と訓む…で、この感嘆がつづまつて"納豆"といふ呼び名になつたといふ。嘘でせうな。いや嘘だからいけなくはないし、この場合は嘘といふより創始説話の類でもある。その主役は矢張り派手やかで賑々しく、出來れば豪壮でもあつてもらひたい。その創始説話に八幡太郎が似合ふかどうか、議論の余地があるのは確かであつて、曾孫の鎮西八郎源爲朝だつたらどうだらう。『椿説弓張月』に何か書いてゐないか知ら。

 

 それはさて措き、納豆は千年前に作り方のあらましが出來てゐたと考へて間違ひはない。まあ二千年以上の長いプレ・ヒストリが背景にあるのだから、既にと云ふより、やうやくと云ふ方が正しからう。それだけの時間を経て、現代でも常食するひとが少からずゐる(らしい)のは、その人びとにとつてきつと、納豆が旨く感じられた、感じられてゐるのだ。曖昧な云ひ方をしたのは、わたしには不思議だからだが、この辺の心理は苞を開け、"傷ンどる"と騒ぎ立てた義家の兵とおんなしだねえ、と笑はれるかも知れない。確かにその点は認めるとして、騒ぐだけでなく、閑文字を弄せられる程度に調べ事考へ事が出來る分は、ましではないかとも思ふ。残るのは改めて納豆を食べてみることで、あの醗酵臭を何とかする工夫があれば、それもまた吝かではない。