閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

469 ライカM4-2のこと

 昭和五十一年にライカ社からM4-2といふ機種が發表された。昭和五十三年から五十五年にかけて、一万六千百台が造られた。ざつと確かめた限り、Mバヨネット・マウントのライカでは最も製造期間が短く、また台数の少い機種である。

 この時期のライカは会社としてがたがたであつた。大掴みにライツ従來のカメラ造りが、日本の一眼レフに打ち倒された時期に重なると云つていい。それで経営が立ち行かなくなつた結果、スイス某社の傘下に入り、栄光あるライツ社はライカ社となる。

 「これからは安価で利便性の高い一眼レフの時代だ」

ライツを吸収した親会社が判断したのは、殆ど直ぐだつたと思へる。昭和五十年にライカM5、翌年にライカフレックスSL2の製造を終らせ、ミノルタと提携したライカR3へ移行してゐるのは間接的な證明になると思ふ。そのR3が成功してゐれば、詰り目論見通りに賣れてゐれば、ライカ社はおそらく、一眼レフへと完全に乗り換へてゐただらう。さうはならなかつたし、それが幸か不幸かは判らないけれども。

 スイス人はライカといふブランドには敬意を払ひながら、ライカといふブランドを使ふひとにまで、目が向いてゐなかつた気がする。

 「電気仕掛けの一眼レフが"ライカ"だつて。巫山戯てゐるのでは、あるまいな」

と考へたライカ・マニヤはきつと少くなかつた筈で、その不満乃至不安は正しかつた。(旧)ライツ社は、自分の手に余る(と考へた)技術の取込みに、きはめて慎重だつた。本当かなあと疑ふひとは、コンタックスⅢ型を思ひ出さう。昭和十一年の時点で、既に(形態は不細工だが)露光計を内蔵させてゐる。ライカが追ひついたのは昭和四十六年のM5である。試作は(何度も)してゐただらうが、製品として出せると判断出來るまでにそれだけの時間を要したのは、寧ろ臆病と呼べるかも知れない。マニヤがさういふライカ史をスイス人より熟知してゐたのは云ふまでもなく、東洋のよく知らない國の技術を取入れた"電気仕掛けの一眼レフ"に反發したのは、一応のところ納得がゆく。ある本には

 ミノルタと技術提携してからのライカは、まるでミノルタのように、いいかえれば、安手の国産カメラのようになってしまった。

といふ一節があつて、痛烈な批判を通り越し、罵倒と云つていい…それもライカだけでなく、ミノルタまで強烈にくさした…口調である。わたしはそこまでとは思はないし、R4からR6に到るライカ社の一眼レフだつて、惡かあないと云ひたいのだが、この稿ではその辺りまで踏み込まない。

 ところでMバヨネット式のライカを出せといふ聲がどの程度だつただらう。ライカ社が無視出來ないくらゐの圧力を感じたと想像するのは許されると思ふ。或はライカ社内でその聲を聞いた社員が、親会社に詰め寄つたか。さういつた事情も無いまま、ライカ社が僅か三年でその再生産に踏み切らうとは考へまい。尤も当時のライカ社員が、どんなライカを造らうかとはつきり意識してゐたかは、甚だ疑はしい。これまでの経験や、倉庫に残つた部品で、兎にも角にも

 「Mバヨネット・マウントのライカを造る。後の機種はそれから考へれば宜しい」

と思つてゐたのではなからうか。その結果、手探りもなく、拙速で用意されたのがM4-2で、上記とは別の本に

 M4-2はM4の改造モデルで、基本のコンセプトはM4(中略)短期間では、新しいライカの設計はできなく、取りあえず前の前のモデルM4を改造して発売したのである。

と書かれてゐるのは("基本のコンセプト"とは妙な云ひまはしだが、そこは目を瞑らう)、こちらの推測が必ずしも的外れではないことを示してゐる。實際製造はかなり大慌てで始つたらしく、幾つかの本から引くと

 刻印には(中略)「Leitz Wetzer」と「Canada」の刻印が同じカメラに同居している「間違いモデル」もある。

 ライカM型の昔日の滑らかな操作感覚というのは失われている(中略)ライカが往年のライカから、「実用物」としてのライカの時代になる。

などとあるし、ワインダーの使用が可能になりはしたが、初期型は"整合性に問題があり"、調整が必要だつたとも書いてある。ここでM4-2のバリエーションを大まかに纏めると

・ごく初期のロットはウェッツラー製だが、それ以外はカナダ製。

・最初期型には、本体の正面に赤丸のライツのマーク。

・軍艦部LeitzまたはLeitz Wetzerのロゴ。

・基本の仕上げはブラック・クローム。例外的に特注品と思われるクローム、オリーヴ、及びグレー仕上げもあり。

これらとは別に、オスカー・バルナック生誕百周年記念の金鍍金モデルがあつて、生産台数から考へると、種類の多さは異様なほどと云つていい。繰返しになるが、当時のライカ社が如何に慌て、また混乱してゐたかが想像出來る。

 我われはここで、更に卅年余りを遡つて、ライカⅢcを思ひ出したい。あの機種には戰前戰中戰後の、ドイツ帝國が混乱し、崩壊から分裂に到つた時期に造られたあふりを受け、特殊でまた奇妙なモデルが幾つもある。背景に横たはつた事情はまつたく異なるし、その混乱にも関はらずⅢcには、ねぢマウント・ライカを完成させた栄光(異論は出るだらうなあ)が認められるのも、大きなちがひではあるが、当時のライツ社が、我を失ひかねない状態だつた点は、卅余年後のライカ社と似通つてゐる。併しM4-2は一言で、"残念な機種"と呼ぶしかない。ライカ社が残念な状況だつたからではなく、残念な状況に甘んじて造られたからで、今のライカ社幹部にとつては、触れられたくない機種の筆頭ではなからうか。

 と云ふだけ云つてから、M4-2はそこまで云へるのが、いいのだと書くと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと呆れるにちがひない。ちがひないのだが、わたしは本気で云つてゐて、ライカのメイン・ストリームに位置附けられながら、他の機種に較べて一段ひくく扱はれてゐるからである。冒頭で生産が一万六千百台と記したのを思ひ返してもらひたい。ねぢマウント・ライカの最終機であるⅢgは倍以上の四万台ほど、Mバヨネット・ライカオルタナティヴまで目を向ければ、MDaが一万四千台余り(M4-2とほぼ同じくらゐ)の生産台数なのに、人気…マニヤの支持、或は中古市場の扱ひで、M4-2はまつたくふるはなくて、そこが、宜しい。あはてて念を押すと、捻ね者を気取る積りは丸で無い。"ライカといふ値うち"のひくさが、使ふ時の気らくさを呼び込んでゐる風に感じられるのがその理由で、我が熱心なライカ愛好家の諸嬢諸氏にも、この点は認めてもらへさうな気がする。

 「そんならM4-Pはどうだらう」

といふ疑念は浮ぶのだが、M4-PはM6の為の實験機の色合ひが濃い。M4-Pに露光計を組み込めばM6だし、生産が並行してゐた時は、M6の部品をM4-Pに廻しもしたさうだから、ほぼ同一と見なしてかまはず、M4-Pを積極的に撰ぶ理由は稀薄になる。ブライト・フレイムが六種三組と煩雑になつてゐる(これはM6も同じ)のと、本体正面の赤丸マークがどうにも好きになれない事情もあつて、それならライツ・ミノルタ銘のCLの方がいいのだが、メイン・ストリームの機種ではないから、今回はあれこれ云ふのを控へる。

 もうひとつ、M4-2だつたら、レンズがライツ・ライカ製でなくても気にならない。ニッコールやセレナーは勿論、ロッコールやGRといつた物好き向けの限定レンズでも、ヘキサノンでもコシナでもアベノンでも、ロシヤ…訂正、旧ソヴェトのジュピターやオリオン、ルサールでも、或は旧コンタックス用のツァイスや各種の一眼レフ用のレンズにアダプタを噛まして使つても、ライカ・マニヤから

 「丸太の野郎、ライカの品格と歴史を冒瀆する積りか」

と罵られる心配はあるまい。この場合、歴代のメイン・ストリーム中で、"格が低い"位置附けが寧ろ利点になつてゐる。惡趣味と云つてもいいが、これでM3やM2にルサールを附けたら、イワンのレンズを使ひやがるのかと、本気で怒りだすひとが出てくるだらう。さういふ惡しき純潔(または純血)主義からある程度の距離を置きつつ、惡趣味も趣味の内だと居直れれば…ここがまた六づかしいのだが…、M4-2は恰好の一台になつてくれさうな気がされる。余程の冗談好きでなければ、薦められないけれども。

【参考:引用順】

・間違いだらけのカメラ選び(著 田中長徳/IPC)

・新M型ライカのすべて(著 中村信一/朝日ソノラマ)

・ライカポケットブック(著 デニス・レーニ/訳 田中長徳/アルファベータ)

・くさっても、ライカ2(著 田中長徳/アルファベータ)