閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

682 仄かに澱む鍋焼き饂飩

 滅多には無いが、鍋焼き饂飩を食べたくなる時がある。

 何でせうね、あの感じは。

 鍋焼き饂飩が目の前にあるとして、或は目の前にあると想像して、不思議なことに、お酒を求める気分にはならない。もつと云ふと酢のものや白身魚の煮つけは勿論、ごはんも慾しくならなくて、兎にも角にも、あのずつしり熱い土鍋だけがあればいいと思ふ。

 玄冬の夜、小さな土鍋の蓋を開ける。

 立ち上る旨さうな匂ひの湯気と腰の粘つこい饂飩。ぎつしり詰め込まれた豆腐、白菜に春菊に葱。蒲鉾。椎茸と榎茸。海老、刻んだ油揚げ、甘辛く焚いた牛肉に半熟卵を思ひ浮べると、どうにも堪らない空腹と昂奮を感じる。

 感じて仕舞ふと云ふか、感じざるを得ないと云ふか。

 東都ではお目に掛つたことがない。目に入らなかつただけかも知れないが、目に入らなければ無いのと同じである。まあ併し東都で鍋焼き饂飩を見つけても、食べたいかどうかと云へば、そこは疑問が残る。

 天麩羅蕎麦があるからなあ…と考へてもいいが、それを含めても蕎麦は地味ですな。江戸好みの簡素とは云へるし、實際問題、種ものをあれこれ乗せた蕎麦は旨くない事情もあるけれど、この稿では意地の惡い云ひ方にしておかう。

 その鍋焼き饂飩がいつ頃まで遡れ、現在の形に纏つたのにはどんな経緯があつたものか、そこは措く。甲州のはうたうが名古屋につたはつて味噌煮込み饂飩に変化して云々といふ説を聞いたことはあるが、裏附けが取れない。諸説ある中のひとつでせうな、多分。

 歴史を遡るのは諦めて根拠の無い印象を云ふと、鍋焼き饂飩の基本的な形が出來たのは、十六世紀の終り頃から十七世紀に掛けての大坂ではないかといふ気がする。あの花形役者が舞台に並んだやうな花やかさは、いかにも豊太閤好みの桃山振りを聯想させる…と思ふのだが、ただの印象だから、信じてはいけません。

 發祥は兎も角、鍋焼き饂飩の解りやすい派手やかさは、江戸の町民が思ひつくものではなく、その解りやすさは単純といふより寧ろ、洗練に洗練を重ねた結果と理解したい。かういふ転じ方は歴史の裏打ちがあつて成り立つから、江戸といふ新興都市には荷が勝ちすぎた。尤も現代の東都に住む大坂人であるわたしの官覚なぞ、江戸の賑ひにはしやいだ鄙侍と同程度だらう。えらさうな態度を取るべきではあるまい。

 と。そこまで持上げてから云ふのも何だが、鍋焼き饂飩の用意は面倒に感じられる。

 複雑な手順があるわけではない。種もののややこしい下拵へは要らない。精々が見映よく切り揃へるくらゐで、ちやんと出汁を取れば…とは云つても起き出した時、鍋に水を張つていりこと昆布をはふり込み、半日も置けばいいし、後は順に煮ればいいんだもの。これが面倒だとしたら、世の中の臺所を預かるひとから、寝惚けてゐますかと咜られるだらう。

 もうひとつ、饂飩族の中で鍋焼きは、"ハレ"に属してゐるのではないか、と考へられる。饂飩族を"ハレ"と"ケ"に分割すれば、鍋焼き饂飩は明かに前者でせう。麺料理族に範囲を拡げても、四天王くらゐの地位は確實と云つていい。裏を返すと、鍋焼き饂飩は何でもいいから理由を附けないと、食べにくいことにな(りさうでもあ)る。

 そんなことを気にしなくたつて、気らくに食べたらいいぢやあないの、といふ指摘に説得力があるのは認める。認めはするけれど、何となく気が引けるでせう。我われの中にある土俗的な感情を払ひ除けるのは六づかしい。

 まさかと思ふひとは、何事もない日に、お雑煮やお赤飯を食べることを想像してほしい。理由ははつきりしないのに、それはちよつとなあと感じるひとは少くない筈で、その漠然とした"ちよつとなあ"を土俗的と呼ぶのです。

 鍋焼き饂飩を食べたくなる時がある。滅多には無いが。

 それは何だらう何故だらうと考へるに、心の底に仄かに澱み、掬ひ取れも棄てきれもしない、曖昧なあの官覚がどこかで、けふはその日ではありませんよと、わたしの袖を引き留めるからではないか知ら。さう云へば鍋焼き饂飩に焼いたお餅を入れるのも旨いもので、"ハレ"の特別な気分の点では、満点と云つていい。併しその特別さが仄暗く揺蕩ふ土俗の記憶をつよく刺戟するのだとしたら、それはまた随分と皮肉な話だなあと思はれる。