閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

744 イロハの組合せ

 立ち喰ひ(または類似の)蕎麦屋で、"セットもの"といふメニュがありますな。所謂一般的な蕎麦屋では余り見掛けない。そつちでは"何とか御膳"とか、そんな名前の筈だ。

 

 イ)かけまたはもりの蕎麦か饂飩。

 ロ)かつ丼か親子丼或はカレー・ライス。

 ハ)時々稲荷寿司だつたりおにぎりだつたり。

 

 イのいづれかと、ロまたはハからのいづれかを撰ぶ。この場合のロは、小盛りになつてゐることが多い。えーと、廿通りか。週五日の仕事として四週間…一ヶ月分に相当する。どの組合せでも六百円とかそんな程度だ(らう)から、牛丼の類よりやや高く、日替り定食よりは安価だと思ふ。罐珈琲一本分程度のちがひだらうが、五日分の差額で、もう一セットにありつけると思へば、莫迦にしたものでもない。

 

 普段のわたしは"セットもの"を殆ど食べない。財布の問題といふより、食慾が追ひつかないからで、掻き揚げ蕎麦くらゐが、胃袋には丁度いい。齢をくつたものだなあ。

 とは云ふものの、もり蕎麦と(ミニ)カレー・ライスの組合せなんて、立ち喰ひ蕎麦屋でもなければ、お目に掛かる機会はなからう。前日の冷やめしを、レトルトのカレーと、カップ入りの即席蕎麦で平らげたいとは思ふまい。いやさう思ひまた實行するひとを、止めやしないけれどもさ。

 

 少し落着きませう。

 カレー・ライスでなくても、蕎麦とごはんものをあはすのは、些か無理がある。妙な云ひ方は承知してゐるが、蕎麦は案外なくらゐ獨立性が高い。映画で云へば、単獨で主演を張りたがるタイプ。天ざるを例に考へても、共演といふより

 「あの"天麩羅"を脇に随へて」

といふ印象が強い。かつ丼や親子丼やカレー・ライスも獨立性が高いのは云ふまでもない。ジャック・ニコルソンロバート・デ・ニーロが、対等に共演したとして、映画が成り立つものだらうか。良し惡しを論じる積りはなく、組合せること自体が、無理筋ではないかと思はれる。

 

 そこで饂飩はどうだらう…と目を向けると、蕎麦より柔軟さうな気がする。尤もこれにはわたしが大坂人だから、といふ事情を勘案してもらふ必要がある。きつね饂飩とかやくご飯の組合せは寧ろ鐵板だし、素饂飩に太巻きも、何だつたらカレー饂飩に白ごはんも歓迎する。ああ。そこの貴女、眉を顰めないで。貴女も偶にはこつそり、半ラーメンに半炒飯を食べはしませんか。きつとさうにちがひない。

 話が逸れさうだ。

 その前に、町中の中華料理屋…ラーメン屋の、醤油ラーメンに炒飯或は中華丼の組合せに別段の不自然はない。さう云へば遠い昔、胃袋が若かつた頃は、ラーメンと炒飯と焼き餃子を平らげるのが当り前だつた。どうも麺料理には、"セットもの"向けとさうでないの(たとへばスパゲッティ)があると見えて…そろそろ立ち喰ひ蕎麦屋に戻りませうね。

 

 一体に蕎麦屋は丼ものとカレーが旨いと云はれる。かへしの転用がいいのださうで、確かに理窟は通つてゐる。その理窟、立ち喰ひ蕎麦屋に当て嵌らない筈はないが、"セットもの"をわざわざ用意する理由まで、到りさうにもない。かう云つたら

 「腹が減つてゐるんだよ」

手短に咜られるだらう。胃袋の事情を鑑みれば正しい。立ち喰ひ蕎麦屋の役割は、廉に手早くお客を満腹にさせることだもの。多少の無理は承知の上で、ご一緒に丼や稲荷寿司はどうですと云ふのは、商ひの方向から見ても正しい。

 それに空腹の晝、かけ蕎麦を汁椀代りに、親子丼を掻き込めば、痛快な気分になれるだらうし、何しろ空腹だから、旨いに決つてもゐる。品がいいとは呼び難いのは確かだが、映画だつて、大物をずらずら並べ立てた(だけの)お祭り…"エクスペンタブルズ"や"オーシャンズ"…が成り立つのだ。イロハの組合せくらゐ、どうと云ふこともない。久しぶりに腹を空かせて、やつつけに行きたくなつてきた。