閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

913 莫迦の骨頂

 新潮文庫の何だつたか、池波正太郎に話を聞く形式で編輯した一冊があつた。その中で小説家は、大坂の人間が、東京の饂飩をくさす…あんなモン、黑いしからいし、喰へたモンやあらへン…態度を指して、 ああいふのを

 「莫迦の骨頂といふんです」

豪快な殺陣のやうに斬り捨ててゐる。あのひとは東京ツ子だからなあ。云はんとすることは判らなくもないが、痛罵なのは間違ひない。

 念を押したいのは、池波が云ふ饂飩は、烈しく働く下層の労働者が空腹を満たす、廉価で簡便な食事を指してゐるんです。かれらががつちりした骨組みの味が求めたのも、饂飩屋が応じたのも、寧ろ当然の結果といつていい。一方近畿人であるところの私が思ふ饂飩は、小腹が空いた時のおやつに近しい。従つて、東京人の罵倒に疑念を抱き、反發を感じたのもまた、当然だと思はれる。

 併し東京饂飩はまづいものか知ら。私は公正な男だから

 「相応にうまい」

と云つておく。中でも掻揚げに生卵を乗せた天玉なら、関西風の饂飩(或は蕎麦)よりよささうな気もされる。相応と云ふのは、口に適ふあはないがあるからで、一概に断ずるのは六つかしい。附け足せば、池波の云ふ"(下層)労働民の食べもの"の見立ては、必ずしも間違ひではない。

 或る日の午后遅く、食べ損ねた晝めしの代りにきつね饂飩を啜つた。私にとつて"饂飩の基本形(勿論大坂風の)"がきつねだから、さうしたんだが、思ひ出さうとしても、東京に棲んで四半世紀余り、きつね饂飩を註文した記憶が見当らないから、我ながら少々驚いた。

 色と香りの濃いつゆに白髪葱、成る程。

 純白の筈の饂飩がつゆに染る、成る程。

 つゆをふくんで、油揚げを囓る。惡くない。東京風の蕎麦で使はれる油揚げは、薄つぺらで堅くて醤油からいのが気に入らないけれど、これはふはりと軟かく、仄あまく仕立ててある。つゆに適ふかどうかの疑問は残るとして

 (お揚げサンは、この方が好もしい)

と思へるくらゐの味。饂飩は茹でおきではなかつたが、並程度。廉な店の廉な饂飩だから、贅沢は云ふまい。但しつゆの所為で、何とも云ひにくい色合ひなのは、目に馴染まない。いづれ馴染むよと云はれるかも知れないが、馴染むまで食べたいとは思ひにくい。"相応にうまい"といふのは、午后の空腹の気紛れに啜つてもよい程度の見た目と味であつた…と、これくらゐの物云ひなら、池波に"莫迦の骨頂"と咜られずに済むだらう。