閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

889 横須賀どんたく~蕎麦屋の巻

 考へたら朝めしを摂つたのは午前八時頃。

 時刻は既に午后一時を過ぎてゐる。

 東横インを出てから、一ぺんも坐つてをらず、立ちまた歩きつぱなしで、空腹にならなければ寧ろ、不健全ではなからうか。さう思つたのだが、頴娃君はさうでもなささうな顔であつた。尤もかれの表情と食慾が一致するとは限らない。

 「では、参りませうぞ」

その頴娃君が、自信に満ちた態度ですたすた歩き出した。貴君、何処へ行かうと云ふんです。

 「蕎麦屋です」

自信に満ちた返答があつた。流石蕎麦ツ喰ひ、事前の調べが行き届いてゐる。こちらに否やはない。横須賀中央驛に向つて歩き、途中の商店街で左に折れた。一体この男は空間認識の能力が高いと云ふのか、地図を見た時に、自分が今どこにゐて、目的地へはどう動くのかを把握するのが素早い。だから安心して附いて歩いた。

 

 道の表側から半歩、奥まつた処に幻獸の名前を冠した蕎麦屋があつた。

 「ここですか」

 「ここなのです」

力強い断定と共に中に入つた。混雑する時分は過ぎ、閑散としてゐる。四人掛けの卓を占領して、品書きを見た。麦酒はヱビスだつたので、省略することにした。福島のお酒が充實してゐるのは好もしい。

 好もしいから呑みたくはある。併し腹が減つてもゐる。肴を欠かすわけにはゆくまい。互ひに熟考の上、結論が出たので註文をした。私は"榮川"と出汁巻き玉子。頴娃君が頼んだお酒は聞き洩らした。肴は鴨焼きと胡麻豆腐の揚げ出し。矢張りあの顔つきは怪しかつたのだ。

 

 "榮川"が美味いのは今さら云ふまでもない。ぐいぐい呑むと、一ぺんに醉ひさうなので、少しづつ含んだ。気になつたのは出汁巻き玉子。大根おろしが添へてある。もつと景気よく添へてくれたらいいのに。玉子焼きはやや火の通りが強めか。ふはふはしたプリンのやうな仕立てよりはいい。ちまちまつつくと、お腹に染みてくる。

 「胡麻豆腐の揚げ出しは如何です」

 「胡麻豆腐を揚げ出したらこんな感じになる、といふ感じがしますな」

判るけれど、よく判らない。改めて昨日の生麦とササさんを褒め、天候の惡さを残念がつた。頴娃君はきゆつきゆと、私の倍くらゐの早さで呑んでゐる。渇きに困じてゐたのだな。

 出汁巻き玉子を平らげた。もちつと食べたい気がした。併しあんまり食べると、お蕎麦に差障りがではさうでもある。どうするかと考へてゐたら、頴娃君がお酒のお代り(最初のとは別の銘柄)を註文した。それで焼き味噌を追加することにした。駄目な小父さんである。

 焼き味噌がきた。お箸をつけると、見た目より軟らかい。ふむと思ひながら食べると、甘みが少し立つてゐる。海苔を隠してゐるのか、味はひは複雑に感じられた。もちつとごつごつした口当りでもいいと思ふし、甘みを控へて木ノ芽を効かすのもいいと思ふけれど、私は食通でなく、まして味噌の専門家でもないから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は気にしなくても宜しい。

 「さ。そろそろ」

 「お蕎麦にしませうか」

 意見が一致したので、改めて品書きを見た。蕎麦は十割だと麗々しく謳つてゐる。頴娃君は躊躇なく蒸篭を撰んだ。普段の私なら同じく蒸篭なのだが、この日は温かいお蕎麦が食べたい。それで暫く迷つてから、たぬき蕎麦を註文した。

 「おや。珍しい」

 「さういふ気分なのです」

応じつつ、立ち喰ひではない蕎麦屋で、たぬき蕎麦を頼むのは初めてだなと思つた。立ち喰ひのたぬきは、出來合ひの揚げ玉を使ふのが殆どだから、口触りが妙にべたべたする。そこをどうするのか、ちよいと気になる。

 出された丼を上から見る。半分は若布。揚げ玉はもう半分を覆つてゐる。たいへん細かく、玉の形をしてゐないから、いちいち揚げてゐるんだと思ふ。上品だなあ。

 蕎麦つゆは案外とあつさりして、微かに柑橘類の香りがする。少し頼りないかと思つたが、揚げ玉が絡んだ蕎麦…なので十割の味についての言及はしない。但し細かな揚げ玉が口当りを滑かにしたのはまことに宜しい…と一緒に啜ると丁度よい。成る程、考へてゐる。

 頴娃君は頴娃君で蒸篭を綺麗に平らげ、蕎麦湯を嗜んでゐる。こと蕎麦が相手だと口煩くなるかれが首を傾げず、論評を挟まなかつたから、惡い出來ではなかつたのだらう。お酒を干して店を出た。

 「さう云へばね、貴君」

頴娃君が何かを思ひ出した顔で云つた。

 「なんです」

 「麦酒は麦とホップと水でせう」

 「さうですな」

頴娃君が頑質な"麦酒純粋令"主義者なのを私は知つてゐる。

 「生麦で使ふのは、何処の水なのですかね」

見落してゐた。確かに尤もな疑念…指摘である。併しその疑念乃至指摘は私でなく、前日の生麦で口にしなければならなかつた。当人は忘れてゐたと云ひ訳をしたが、かれのことだから、ササさんの説明に気を取られてゐたに決つてゐるし、その事情なら理解も出來る。詰り改めてその点を確めに、生麦へ行かねばならないといふことだ。横須賀をもうちつと撮りたい頴娃君が云ひ出したのでここで別れ、京浜急行電鉄の乗客になつた。暫く眠つたら、品川驛だつた。