閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

823 安蕎麦を弁護する

 蕎麦好きには莫迦にされるから、あんまり云ひたくはないのだが、おれは立ち喰ひ蕎麦が好きなんである。と書いたら

 「ああいふのは蕎麦とは呼べない」

 「だから丸太の舌は駄目なのだ」

我がシビアな讀者諸嬢諸氏から、厳しい指摘が出てくるだらうことは解つてゐる。だからと云つて御説御尤と立ち喰ひ蕎麦を切り捨てられないのも本心であつて、詰りここからは居直りである。

 遡ると蕎麦なんざ備荒食に過ぎなかつた。アイルランドやドイツの馬鈴薯と同じと云つていい。それを"御座敷料理"まで昇華さしたのは…天麩羅と同じく…江戸人の(過剰な)洗練意識なのは認めるのに吝かではないけれども、そこまで気取りたくなるものかねと毒づきたくもなつてくる。尤もさういふ反發心で時折り、立ち喰ひ蕎麦屋に行くのだと云ふのは嘘である。事態はそこまでややこしくない。偶にたぬき蕎麦だの掻き揚げ蕎麦だのきつね蕎麦だの月見蕎麦が妙に恋しくなる瞬間があつて、或は呑んだ後にもりの一枚も啜りたくなることもあつて、そんな場合にはどこかの老舗名店ではなく、驛前やら商店街のチェーン店の名前が浮ぶ。

 富士そば

 梅もと。

 箱根そば

 身近なのはこの辺り。後は旧國鐵驛構内のあじさいや奥多摩蕎麦だつたか。ゆで太郎小諸そば、阪急そばは見当らない。おやつの代りに啜るならたぬき。春菊の天麩羅もいいんだが筋が残つたのに当るとえらい目にあふ。もちつと腹が減つてゐるなら掻き揚げにするし、ちよいと気張らうと思つたら天玉。変り種は余程でないと註文しない。時にもりの蕎麦つゆに温泉卵を落すくらゐで、蕎麦に七味唐辛子をかろく振つておくと、醉ひ醒しに妙に旨いから不思議である。蕎麦通に見られたら、きつと品がないと咜られる。まあ品がないのは事實だから反論はしないし、普通の蕎麦屋で玉子焼きや板わさを肴に一合か二合のお酒を呑んで、もりを一枚平らげる午后が惡くない時間なのも認めたい。認めつつ併し小聲でさういふ品のない樂みは立ち喰ひ蕎麦屋だから試せるんですよと居直つておくくらゐは、許してもらひたいと思ふ。