閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

973 気紛れとポテトフライ

 偶に、或は屡々足を運ぶ呑み屋での問題は、摘みがおほむね決ることで、一例を挙げると、串焼きのお任せ(六本。最近は全部、塩で焼いてもらつてゐる)、塩キヤベツ、蛸の唐揚げ、ハムカツ、マカロニ・サラド、鶏皮のぽん酢和へ、焼賣。別の呑み屋ならハラミ(二本。塩で)、獅子唐と大蒜、鯵フライ(梅のソースがうまい)、玉葱のフライ、ピーマンの肉味噌詰め、冷製の甘辛もつ、紅生姜の串揚げ、赤ウインナの揚げか焼きは迷ふところ。勿論どちらの店でも、全部を纏めて註文するわけではなく、挙げた中の何品かを撰ぶ。

 

 自分に都合よく云ふなら保守的。

 冒険心に欠ける態度とも云へる。

 

 實態は、後者でせうね。お店撰びもさうだが、普段は食べないお摘みを註文するのは、どうにも億劫に感じられる。唐揚げの蛸が鶏になり、冷製のもつがもつ煮になることはあつても、それ以上の変化は、積極的に求めない。大将や女将さんから、おまけですと出してもらつてり、これはお奨めですよと云はれたら、ちよいと試すかとは思ふけれど、要は知つた味が好もしく、且つ食べきれる分量が望ましい。精々がその程度であつて、臆病と笑はれたら、反論は諦める。どうです、冒険心に欠け、臆病ではあつても、公正でせう。

 ここまで書いて、画像がポテトフライなのだから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと、呆れたにちがひない。

 (もしや丸太は、食べたことがなかつたのか)

莫迦にしちやあいけない。私だつて、ポテトフライを食べた経験くらゐある。詰り知つた味。ではあるが、その量がこちらの胃袋に過ぎてゐさうに思へて、距離を取つてゐたんである。さうさう、距離を置くのと好むか否かは別の話だから、念の為。

 

 ある夕方、ある呑み屋で、そのポテトフライを註文したのは、云はば気紛れだつた。気紛れの理由は判然としない。それで出てきたのを摘むと、中々うまい。揚げて直ぐ出すのだから、うまいのは当然だらうと云はれたつて、何せ久しぶりのポテトフライである、こんなに旨かつたかと思つた。もしかすると親切且つ冷静に

 「ああいふ店のポテトフライは、冷凍ものを揚げるだけだからね、大したことはありませんよ」

教へてくれるひとがゐるかも知れず、それはまあ、正しいのだらうけれど、註文して待つだけで、揚げたてが出るのだと思へば、矢張り大したことと云つていい。

 

 味つけは当り前に塩。最初はその塩味だけで。フライやカツレツの類で、衣をいきなりほとびらかしていいのは、ハムカツだけである。横に添へてあるケチャップもつける。カゴメデルモンテか、これは感心しなかつた。ポテトフライの場合、ケチャップはハインツに限ると信じてゐるのだが…ケチャップを論じるのは、別の機會にしませう。ホッピーの摘みに熱いポテトフライは、私にとつて新機軸の組合せであつた。絶讚とは呼べないまでも、偶さか、気紛れにやつつける撰択肢なら、十分になる。面倒なことをひとつ、つけ加へれば、品書きには揚げ馬鈴薯と書いてもらひたい。偶さか気紛れの頻度が、高くなりさうに思はれる。