閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

838 「三」

 特定の数字に意味を見出だすことがありますね。末広りの八だとか、ラッキー・セブンだとか。ああいふのを"聖数"と呼ぶ。いきなり余談をすると、基督教では十三を不吉な数と見立てる、とする説は不正確なんです。ひとりの王と十二人の従者。ユダヤ的な視点ではこれが聖的で安定した構成なのださうで、これが正しければ、ユダの裏切りを知つたイエスさまが、大慌てで欠番を埋めたのも解る。従者が欠けると、聖性を満たせなくなるからなんですね。どこかの呑み屋で、自慢さうに話してください。間違つてゐても責任は取りませんけれど。余談終り。

 一ばん小さな聖数をご存知でせうか。

 「三」である。

 最初の奇数である「一」と最初の偶数である「二」の合計といふところに、我われの遠いとほいご先祖たちは特別な意味を感じたのだらう。基督教でいふ三位一体がさうだし、藥師如来さまと脇侍である日光月光の両菩薩もさうですね。主従をはつきりさせ易く出來る…「一」プラス「二」は、ユダヤの「一」プラス「十二」の原形にちがひない…のも、具合がよかつたんだらうと思はれる。勿論それを莫迦ばかしい迷信と笑ふのはかまはないが、意識してゐるかどうかは知らず、現代の我われも自分の為の聖数を持つてゐると思へるし、その中にもしかして「三」があつたとしても、不思議ではありますまい。

 ここまで書いて、話は呑み屋の卓に移るので、スケールがぐつと小さくなる。まあ[閑文字手帖]だものと考へたら、適切な規模と云つていいでせう。ちやあんと「三」は含んでゐるから、その点はご安心を。

 麦酒や焼酎ハイから始めるとして、お摘みをどうするか。

 鶏の唐揚げかもつ煮。

 お刺身叉は焼き魚の類。

 酢のもの或はサラド。

 こんな感じになることが多いんではなからうか。ハムカツとポテト・サラドの組合せが魅力的なのは云ふまでもありませんが、何かもう一品、柳葉魚だつたりげその天麩羅だつたりを加へたくなる。

 何故でせうね。

 "お肉と魚介と野菜"の三品は實に安定するもの、と考へるのは理に適つてゐる。主菜副菜箸休めの視点でも、納得がゆく。定食に置き換へると、麦酒(乃至焼酎ハイ)がごはん。主役のおかず、汁もの、小鉢(またはお漬物)と見立てられるから、矢張り納得出來る。納得はしつつ併し、さういふ合理的な理由にすべて収まるのか知ら、といふ疑念は残る。先に聖数である「三」があつて、その咒力に引つ張られた結果、酒席のお摘みでも三品に特別な安定を感じるに到つたのではないか…などと云つたら、我が合理的な讀者諸嬢諸氏からは、なんて土俗的な、とすつかり呆れられるかも知れないが。

 勿論正しい指摘である。その正しさは認めながら言を継ぐと、その合理の裏側には土俗への畏怖がべつたり、貼りついてゐる風に感じられないだらうか。思ひきつて云ふなら、すべてのサイエンスの背景には、土俗未知への恐怖がある。併し土俗未知が無くなることは有り得ず、我われの"合理性"をひと皮剥がすと、曖昧で仄暗い何事かが渦を巻いてゐて、時にそれは合理の薄皮を破つて顔を出す。それが一ばん身近な数字の姿になるのは不自然ではないし、その数字が「三」といふ簡潔を纏つてゐても、当然のやうに思はれる。うーむ、我ながら學術的だなあ。

 さういふことを考へながらある晩、獨酌を樂んだおれの前には、肴が「三」品、慎ましく並んでゐたのであつた。