閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

905 面倒はどつちだ

 気に入つた呑み屋は、多いわけでない。なので程度はともあれ、通ふことになる。さうなると、お店の大将なり女将さんなりに、顔を覚えられることにもなる。また常聯のお客と顔をあはす機會も、少しづつ、増えもする。何となく知つた顔があるなと…大体さういふ場所に居るひとは、顔は判つても、名前までは知らないのが相場だからね…會釈するくらゐなら、どうと云ふこともないが

 「どうも今晩は」

などと挨拶をしだすといけない。大将や女将さんに目敏く、このお客たちは知合ひなのだと感ぜられるのは、もつといけない。さつと呑み、ちよいと摘んで帰りたいだけなのに、何とはなしに雑談をしなくてはならなくなる。時に

 「昨晩、誰々さんが來ましてね」

と、埒もない噂話につきあふこともあつて、尻が長くなる。尻が長くなると、呑む量が増えるし、そこはかまはないにしても(宿醉ひの心配はあるのだが)、呑む量が増えれば、勘定が比例して高くなる。甚だ迷惑である。

 云つておくと、埒もないお喋りをきらふのではない。それはそれで、摘みになる。併しいつでも好もしい摘みとは限らない。註文を除けば無言で通したいと思ふことだつてあるもので、さういふ気分なのに、愛想笑ひを浮べ、あれこれ話すのを求められるのは不愉快である。

 「だつたら(丁重に)無視すれば済むだらう」

と思ひたいのだが、頭の隅に、"酒場のつき合ひ"が散らつくと、素気なくするのが六つかしくなつてしまふ。見栄坊なたちだから、仕方がない。

 別の手段として、新しい呑み屋を見つけることは考へられる。"別の"手段が併し、"よりましな"手段かは別の話で、その"新しい"呑み屋が、私の好みに適ふ保證が無い。ここで云ふ好みとは、お摘みの旨さ、お酒の佳さは勿論、食器酒器やら店主の客あしらひ、お客のざはめく調子も含めて成り立つてゐる。初見で満点を出せる筈はないし、一応の及第点は出しても、本当に及第点かは、通つてからの判断になる。博奕である。いちいち八釜しいと苦笑を浮べる向きもあらうが、人生の何時間かとお小遣ひを費やす酒場だもの、慎重を期すのは寧ろ、当然の態度ではあるまいか。

 更に云ふと私は保守的…臆病でもあるので、不見転の呑み屋にふらふら入るのが、出來にくい。入つたところで、厭な顔をされる心配なぞ、しなくてもいいのに。それは知つてゐる。ただ稀に妙な方式…註文は紙に書いて渡すとか、現金でその都度払ふとか…の呑み屋もあつて、確實な手法なのだらうけれど、当り前の気分で

 「麦酒とポテト・サラド、それから鯵フライ」

と註文して、大将だか店員さんだかに、かういふ方式で註文願ひますねと云はれたら、さうでしたかすみませんと云ひつつ、きつと耻づかしい。女将さんたちは気にしないだらうから、臆病が先行してゐると云つていい。

 さういふことを、"おまかせ串六本(塩とたれ三本づつ)"を摘みに、壜麦酒を呑みながら、考へた。呑み屋(での、或はとの)つき合ひは面倒だなあ、と纏める積りだつたのに、見栄坊で慎重で保守的で臆病な自分が詰り、面倒な男なのだと解つて、何とも云ひにくい心持ちになつた。