閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

518 曖昧映画館~うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 かういふ云ひ方をすると、ファンから叱られるだらうと想像しながら云ふと押井守は好き勝手をさせてはいけない映画監督だと思ふ。駄作になるとは云はないが、映画は観客がゐて映画になることが、奥に押し込められる気がする。抽象映画が惡いとする見方には賛意を表しかねるにしても。

 その辺の均衡がぎりぎり崩れなかつたのがこの映画で、かれの惡癖である思はせぶり…夜中のちんどん屋だつたり、風鈴の踊る路地裏だつたり…は散見されるけれど、何とか許容出來る範囲に収まつてゐる。尤も映画としては"うる星やつら"を知つてゐることが前提にもなつてゐるから、厳密に云ふと(外の"劇場版"と同じく)零点なのだが。

 繰返されるお祭りの前夜、といふ仕掛けがいい。お祭りは始まつて仕舞ふと、終るだけだもの。前日前夜にはその心配が無い。それが一気に崩れ去つて

 「衣食住が保證されたサバイバル」

に突入する流れもいい。夢と現實の境目は曖昧で、それなら夢に溺れきつて何か惡いのだらうか。と書くと、どこか陰鬱な感じもするが、實際の映像はあくまでも明るく、莫迦ばかしく、軽快なまま、造られた夢の崩壊まで繋つてゆく。

 古川登志夫平野文神谷明島津冴子鷲尾真知子千葉繁といつたヴェテランたちが素晴らしい演技を聞かせて呉れるのが嬉しいし、何より鍵を握るゲスト・キャラクタの夢邪鬼を演じた藤岡琢也の怪演…初めて観た時に、"あのサッポロ一番の小父さんが"と驚いたのはここだけの話…は特筆に値する。後で聞いたところだと、作画の不完全さには多少目を瞑つても、完成した状態の映像に聲をあてる方針だつたさうで、それは正しかつたと思ふ。確かにアニメイション映画としては首を傾げる箇所は幾つかあるけれど、全体を通せば致命的とは云へないし、動きに聲と音が纏まつて成り立つのがアニメイションなのだから、その意味でも均衡の取れた映画であつた。

 高校生の頃に映画館に二へんか三べん足を運んで七回くらゐ観た。實は今も時折観る。それで飽きないのは、ささやかな感想の間接的な證明になつてゐないだらうか。