閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

689 お酒と摘みと呑み方と

 オンラインで会議だのをする為のアプリケーションがありますな。あれとかこれとかそれとか。私的な會合にも転用が出來るから、少なからぬひとが使つてゐるのだと思ふ。わたしの場合、仕事なら止む事を得ないとして、私用ではほぼ使はない。と云ふより使ひたくないと思つてゐる。かう書くと我が先進的な讀者諸嬢諸氏から、丸太はその辺りが古臭くつていけないと咜られるか笑はれるか、なりさうだが、使ひたくないのだから、仕方がない。併し一方で、何故さう感じるのか、我ながら多少の疑念は感じなくもない。

 音聲だけ、文字だけなら、そこまでの反發は持たないのは確かで、映像が加はるのに抵抗感があるのだらうか。成る程カメラ越しに自分の顔を曝しながらの會話といふのはごく最近、成り立つた形式だから、馴染みが薄いと考へても無理は生じない。仕事で使ふのは(繰返すと)仕事だから止む事を得ず、その止む事を得ない仕事の気分が貼りついてゐるとも考へられなくはない。ただそれなら音聲…電話や、文字…チャットでも同じ筈なので、理由附けとしては甘い気がする。

 もうひとつ、アプリケーションを使ふ…とはオンラインの酒席といつた私的な利用を想定するのだが…場所に理由があるのではないかと考へてみた。多くの、もしかして殆どの場合、アプリケーションを利用するのは自宅であらう。カメラを通して他人さまの目が自宅にやつてくる、と考へたらこれは厭である。そこそこ清潔で整つてゐたら、平気だよと思ふひとはゐるだらうし、それはそれで構はないけれど、こちらの気分としては御免蒙りたい。

 「オンラインが(半ばにせよ)公なのに対して、オフラインは私の領域である」

とは、これは漠然と感じてゐることなのだが、この種類のアプリケーションには、その境界線を打ち毀す感じがする。気に入らない。と云ふのは無知ゆゑの身勝手な理窟かも知れないし、さう指摘されれば、頭は下げる。頭を下げつつも腹の底で、實のところは理窟ではなく、わたしが気に入るかどうかの話に、それつぽい衣裳を被せただけだよと呟きはする。

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 それでここまでが長い前振り。實は更にひとつ、思ふところがあつて、私的なオンラインの會合なら、大抵はお酒が絡むだらう。絡むにちがひない。呑むのはいい。惡くないと言葉を控へる方がよからうか。呑むならいいも惡くないも同じだとここでは居直る。併しひとりで呑むのと、友人知人と呑むのはわけがちがふ。自宅で呑むのと気に入りお店で呑む味がちがふのと事情は変らない。お酒の味はどんな季節のどんな天候か、その日の腹の具合だの心持ちや、何を摘むかで全然異なるのだから当り前である。そこがお酒の面倒なところであり、樂みな点でもあつて、どこで呑んでも麦酒は麦酒だよなどと思ふひとは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、まさかをられまい。

 詰り家で呑む以上、用意するのは家で自分が呑む為のお酒だから(摘みもさうである)、たれかと共にといふ前提にはなつてゐない。そこにアプリケーション…カメラが入ると、自分ひとりの為ではなく、(仮想的に)友人知人がゐることになるので、何を呑み、叉つまめばいいのか、解らなくなつてくる。第一わたしには見栄坊のところがあるから、わざわざ普段とちがふ銘柄を買ひたくなりかねず、それが旨ければ、カメラのあちら側にゐる友人知人にお裾分けしたくなり、友人知人が呑んでゐる旨さうな銘柄は、ちよいと分けてもらひたくもなる。ただ實際のお酒はこちらの、或は相手の手元にあるから、ちよいと一ぱい交換しませうと云へはしても出來はしない。苛々する。

 「さういふ些細なことを、いちいち気にするのがをかしいので、自分好みのお酒と摘みを選べばいいんです」

さう応じるのがひよつとして当り前の反応なのかも知れないが、それで済むならこんな一文を草せずにも済む。繰返しに目を瞑つて云ふと、お酒(と摘み)は、時と場所と天候と腹具合…総じて云へば気分で味はひが、微妙に(でなければ丸で)ちがつてくる。そこを上手く調へるのが呑み助の樂みで、そんなことはないさと笑ふひとは、そもそもひとりで(或は友人知人と)呑むのに不向きなたちだと云つていい。

 勿論そこで、アプリケーションを使ふのにあはせた呑み方を調へるのが、呑み助のあらほましい姿と云ふのは誤りではないと思ふ。思ひはするが、卅十年余りに渡つて身に染みついた呑み方を、精々二年そこそこのアプリケーション如きにあはせ直すのは面倒である。オンラインのコミュニケーションを使つてこそ、ニュー・スタイルだかニュー・ノーマルだか云はれても、新しさを誇るのはニュー・スタイル乃至ノーマルの知つたことである。そつちがおれの都合心理にあはせてこいと応じる外に無い。