閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

549 好きな唄の話~番外篇

 昭和五十九年から同六十三年に掛けての中森明菜は神憑つてゐたと思ふ。具体的には、「飾りじゃないのよ涙は」から「I MISSED "THE SHOCK"」までの十五枚のシングル・レコードを出した期間。廿歳そこそこの少年だつたわたしが、アイドル歌手(といふ言葉が昔、あつたのですよ)の見方を変へたのは、この時期の彼女だつたのは間違ひない。

 註釈のやうに云ふと、この前後には小泉今日子の「なんてったってアイドル」や森高千里の「私がオバさんになっても」が出てゐた。大雑把にアイドルの"かくあるべし"といふ枠が弛み始めた辺りともいへる。小泉や森高は、アイドルである自分をぬけぬけと揶揄ふ方向を撰んで成功したが、中森明菜はさうしなかつた。

 出來なかつたのだらうな。

 明菜は最初から昏い花だつた。松田聖子のやうなオーソドックスさも、キョンキョンのあつけらかんも、持合せないまま、アイドルに仕立てられたのは、今となれば彼女の不運だつたと思ふ。本人がどう感じてゐたかは知らないが、クラッシックなスタイルのアイドルでは保たず、明るく樂いキャラクタになれないことも理解してはゐたと思へる。

 「十戒」の後、井上陽水から「飾りじゃないのよ涙は」を提供された時、彼女はどう思つたらう。無垢な少女の恋を演じるといふ(云はば)呪縛から離れたことを喜んだか、処女性を失つた女を演じなくてはならない苦痛を感じたのか。その辺りは想像の及ぶところではないが、ここからの数年間が、歌手中森明菜の最盛期だつたとわたしには思はれる。

 現代のアイドル事情はまつたく知らないけれど、ひとりの女性アイドルが処女性で人気になり、その処女性を棄ててまた人気を得た例は稀ではなからうか。山口百恵は処女性の持合せがなかつたし、松田聖子には娘を産んだ後も処女の匂ひが残つてゐて、小泉今日子に到つては、さういつた二分割を(きつとどこかで)投げ棄てた。

 中森明菜といふ昏い花は、さうせざるを得なかつたといふ土壌に咲いた。資質といふ言葉に押し込むのは、厭な云ひ方になるとは思ふ。但し資質だとすれば、それは稀有であつたとも思ふ。始まりがアイドル歌手でなければ、その花は今も咲き誇つてゐただらうか。詮無い想像である。