閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

658 お好み焼タイム・マシン

 お好み焼の話を書かうと思つた。かういふ場合、わたしは先づ、現代のお好み焼のご先祖さまはいつ頃、生れたのかをざつと調べることにしてゐて、どうやら戰前の一錢洋食と呼ばれた駄菓子がそれらしい。小麦粉を水で練つて、薄く延ばし焼き、ウスター・ソースを塗つたおやつ。お駄賃での買ひ食ひに丁度いいくらゐだつたらうな。

 一錢洋食にも、更に三百年余り遡つた麩焼きといふ原型がある。茶會に出された菓子の一種。小麦粉を水と酒で練り、薄焼きにしたところに、山椒味噌だの餡だの何だのを塗り、巻物のやうにして供したといふ。これなら令和の現代でも、ちよつとした肴、お茶請けになりさうである。序でながらこの麩焼き、千利休の考案といふ伝説がある。

 茶席の客向けと駄菓子屋の子供向けではえらいちがひがありさうだが、どちらも歴とした食事ではなく、ちよつとした空腹をかろく収める点は共通してゐる。まあさうですなと軽く頷かれては困るので、食事以外に食べる機会を持てるといふのは、経済の安定だとか、農作物の生産高だとか、それを扱ふ設備や技術の向上だとか、色々の條件があつて成り立つ贅沢なんである。

 

 ところで。我われのご先祖は、焼くといふ調理法に不熱心だつたのか知ら。根拠があつての見立てではないから、信用されては困るけれど、どちらかと云へば烹る漬けて醗酵させるのが主。後は干物を焙るのが精々で、たつぷりの焔を一気に使つて焼くのは苦手だつた印象がある。

 さう考へると、一錢で焼いた駄菓子を買へるに到つた時代は、調理法が劇的に変化した…それで元が取れる程度まで技術や設備が整つた…結果と云へないだらうか。本邦の鐵板料理史には無知だから、当てにならない推測ですよ。

 変遷の實態はさて措き。現代のお好み焼に直接繋がる姿が出來たのは、敗戰後らしい。乏しい米だけでは腹が膨れんといふ理由。まことに殺風景で、矢つ張り戰争は勝たなくちやあならんのだなと思ふ。そこもまあ、さて措くとして、小麦の出処は進駐軍、もつと露骨に云へば米軍だつたらう。あの國の無邪気な親切心…お節介にわたしは決して好感を抱くわけではないが

 

(自國の"民主主義"が、世界のどこでも通用する最良の政体と信じてゐる…大統領が何度もやらかしてゐるのに…のは、自信の顕れなのか、他國の歴史や地理や信仰に無知のゆゑか。言葉の滑り序でにいふと、本邦に"民主主義"を嵌め込んだのは失敗…少なくも成功ではなかつた。この國に適ふのは寧ろ曾てのヴェネツィア共和國のやうな寡頭制であつたし、もしかすると現代でもさうなのではなからうか)

 

廿世紀半ばの餓ゑた日本にとつて、素晴しい援助だつたのは間違ひあるまい。ひよつとするとアメリカは、この際だから日本の食生活も占領してしまへ、くらゐは思つてゐたのだらうか、まさかね。

 尤もGHQが"日本の食卓小麦化計劃"を持つか練るかしてゐたとしても、失敗に終つたとは思ふ。現代に到つても、小麦が主食の坐を得てゐない事實(米の優位が大きく揺らいでゐるのも事實ではある)はその間接的な證明だし、遡つて七十年余り前のご先祖たちが、小麦を主食の代用品と見てゐても寧ろ当然であらう。クロワッサンや黑麺麭にショコラとコーヒーを好んだ永井荷風でも(あの狷介頑固な老人は、一方で西洋式の生活を苦にしないひとでもあつた)、疎開先で供ぜられた白米に悦びを隠しきれてゐないのだもの。

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 …話が妙な方向に逸れさうだな。用心しませう。

 小麦粉を水で練つて焼いて何か乗せる。何かといふのは屑肉や野菜や蒟蒻の切れ端でも、怪しげな臓物の煮込みでも何でもよく、それで商賣にもなつたらしい。貧なるかな。現代のお好み焼屋の名誉の為に云ふと、さういふ貧で怪しいお好み焼(擬き)は、吉田健一が苦笑混りに書いた通り、食糧難の解消と共に消え去つてゐる。生き残つたのは、どうすれば旨くなるかと工夫を怠らなかつた人びとで、この系譜が現代のお好み焼屋に繋がつてゐると云つていい。

 かれらがえらかつたのは、このお好み焼を"新日本の新たな食事"にする積りを丸で持たず、おやつや軽食の方を向いたことだつた。すりやあどうしたつて、白米には勝てんからなあ。などとたくわんで湯漬けをやつつけつつ、考へたのではあるまいか。わたしならさうする。お好み焼の具がキヤベツや葱、豚肉や烏賊の切れ端で纏つてきたのは、水戸光圀がひげを蓄へた態度に模せさうな気がする。

 

(少し脱線すると、江戸期に入つてそれ以前と大きく異つた風習がふたつある。ひとつは無帽の習慣が成り立つたこと。もうひとつがひげを立てなくなつたこと。公に高い立場に就くひとは顔を綺麗にあたるのが当然になつて…歴代将軍の肖像画を見れば判る…、ひげを蓄へるのは、剃髪と並んでさういふ立場への野心を持たないといふ徽に転じたさうで、併し何故そんな風になつたのだらう)

 

 卅有余年前に遡るわたしの高校生の頃、月に一度か二度は食べに行つた天神橋筋商店街お好み焼は、確か豚玉一枚五百円。品書きは他にいか玉、ミックス焼、モダン焼、ミックスモダン。焼そばもあつた。友人とその店に行つた時は、それぞれ一枚づつの註文に、焼そばを一人前追加して、半分こにした(出來上りの時点で分けた)のを覚えてゐる。コーラも飲んで千円足らずだつたか知ら。昭和終期の高校生が払ふ金額としては、ちよいと贅沢だつたと思ふ。

 正直なところ、当時のわたしは、豚玉一枚と焼そば半人前を食事と感じてはゐなかつた。満腹になつたのは確かだけれど、あくまでもおやつ(めしの代りくらゐとは思つてゐたか)の範疇であつた。勿論その頃、利休の名前は知つてゐても、麩焼きは知らなかつたし、一錢洋食も同じで、いや併し葱焼きといふのは知つてゐた。大坂式の一錢洋食みたいなものと云つていいのかどうか。お好み焼より一段ひくい格の食べものだつたと思つてゐたのは間違ひない。

 とは云ふものの。今になつて…といふより、この稿を書きつつ思ふに、葱焼きはお好み焼より本道ではないか知ら。ここで云ふのは利休の麩焼きまで遡る本道の意味。葱ならウスター・ソースは勿論、味噌や醤油にも適ふ筈で、巻物仕立てで切り分ければ、小洒落た一品になるだらう。ひと切れかふた切れを(梅酒なぞで)つまんでから、おもむろに豚玉と壜麦酒に取り掛かれば、四世紀半を一ぺんに渡ることが出來る。詰りタイム・マシンは實在したのだと云つていいと思ふが、令和のお好み焼を利休の茶席に出したらどうなるものか。あの茶人には厭みなところがあるから、冷やかに侘びも寂びもありませんなと、鼻で笑ふかも知れない。席を終へてからこつそり食べるくらゐしさうなひとだつたら、愛嬌も感じるのだがなあ。