閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

771 新書に就て

 新書と呼ばれるやや縦長の形態の本がある。直ぐに思ひ浮ぶのを挙げると、岩波中公講談社辺りか。文春や集英社や新潮にもある。他にもある筈だが、よく判らない。

 小學六年生の時に買つた講談社が、初めての新書だつた。著者も題名も忘れた。ノアの洪水伝説について考證だつたのは間違ひなく、併し中身はアララト山の地名以外、丸で記憶に残つてゐない。"小學生向けの入門書"ではない本を讀んだといふ、妙な満足感はあつたけれど、それきりである。

 それから新書を讀み耽る習慣が身についた…わけではなかつた。当時のわたしにとつて讀書は、ハヤカワSF文庫と創元推理文庫を讀むことだつたから、講談社の名前を忘れたあの新書はまつたくの例外であつた。

 

 とは云へ初めての経験はどこかしら、何となく、影響が残るらしい。わたしにとつて新書は、學術的な内容を概観的に記した本、の印象が今でも強い。だから新書判の小説には違和感がある。奮發して手に入れたお皿に、マーケットの惣菜賣場で買つたナポリタン・スパゲッティを乗せた感じ、と云つたら、余計に解りにくいか。

 それで一冊、岩波新書の『短編小説講義』を思ひ出した。著者は筒井康隆。漆のお椀にこつてりした煮込みを盛りつけたやうで、へえ岩波が筒井の本を出せるんだ、と微苦笑が洩れた記憶がある。短篇を讀む習慣はないし、筒井の文章はどうも苦手でもあるのだが、それで興味をそそられた。面白く讀んだのは間違ひない。詳しい内容が記憶に無いのは、こちらの文學的な素養の問題である。

 

 白水社が出してゐるク・セ・ジュを知つたのはいつだつたか。古代のローマに興味が湧いた頃(その興味は今も續いてゐる)、見つけたのは確かである。フランスの出版社が出してゐる、歴史や文化、藝術の叢書を翻訳してある。判型は一般的と思はれる新書より、やや幅があるので、本棚へ美的に並べたい時は注意を要する。

 もうひとつ。あちらの學者研究者が書いた内容を、こちらの學者研究者が翻訳することが少からずあつて、困らされる場合がある。訳がこなれず、惡文になつてゐるので、編輯者には善処をお願ひしたい。折角そそられて手にしたのに、讀みにくさではふり出したくなるのは、讀者(詰り我われ)は元より、出版社にも損な話ではあるまいか。同じ白水社のμブックスは翻訳ものでも、訳者の佳きを得てゐるのだから、無理な註文ではないと思ふ。

 

 ク・セ・ジュが欧風の新書なら、冨山房の百科文庫は純然とした和風の新書、といふ印象がある。印象に留めるのは未だ買つたことがないからで、薄田泣菫斎藤緑雨が収められてゐる筈なのに、また好きな文人でもあるのに、わたしは何をしてゐるのか。

 反省はこちらでするとして、気がついたのは、近年の新書にはどうも、流行を追ひかける癖があるらしい。新しい…新しさうな言葉や概念が用ゐられ、或は事象が起きると、今なら何だらう、仮にメタ・バースなら、メタ・バースを種に概説書の体裁で出してくる。政治や経済にしてもさうで、そつちは不案内だから例は挙げないけれど、有り体に云つて、目の前の事共に飛びついてゐる感じが強い。

 余程でない限り、初版で終り。

 何かに似てゐると思つたら、Twitterである。あすこには現在だけがあり、流れた過去は顧みられず忘れられる。相当にに阿房な眞似をしでかしたら、事情も異ならうが(今なら炎上とか、云ふんでせう)、その辺りはTwitterでなくても変るまい。我ながら上手い譬へが出來た…のは兎も角、新書の形態で"なう"しか見てゐないのは、如何なものかと云はざるを得ない。その為に雑誌やムックがあるんでせうに。

 新書…歴とした本の姿だから賣れるのだ、との見立てを間違ひと云ふのは六づかしい。同じ手法で何冊も出してゐるのは、ある程度にしても賣上げが見込めるし、その實績もある筈だからで、またさうしなければ経営が成り立たない事情を察してもいい。何なら一掬の泪を灌いだつていい。尤も非學問的な…本当は流行に媚びたと云ひたいのだが、流石に遠慮しておかう…新書を出し續ける弁護はしないけれども。

 意地惡な樂みを云へば、感心しない新書の題名を、年毎に並べることは考へられる。十年の履歴があれば、ある年に何が話題だつたか、或は何を流行らせたがつてゐたか、大枠が透けてきさうに思へはする。また實際の世間がどうだつたかを照しあはすと、見えてくることだつてあるだらう。などと云つたら出版社の眞面目な編輯者は心外だと腹を立てるにちがひなく、それは正しい腹立ちと認めていい。その腹立ちをこちらに向けるのは、筋がちがふだけのことである。

 尤もそれは、丸太の思ひ込みと云はれれば、成る程さうかも知れない。新書に好事家の簡便な學問を結びつけるのは最初に、アララト山を教へてくれた、あの講談社新書を手にしたからで、異なる出版社の別の本だつたら、この稿で書くのは(良し惡しはさて措くとして)、まつたく違ふことになつてゐただらう。もしかすると刷り込みの一種なのかとも思はれるが、かういふ理解が正しいものかどうか。解説してある新書を、どこか出してゐないか知ら。