閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

609 オトゥールと八百屋

 伊丹十三の本で讀んだ話を(原物が見当らないから)、記憶で書く。かれの知人…確かアイリッシュの俳優。ピーター・オトゥールだつた気もするが自信はない…の祖父は、パーティに行つた時、議論を秘かに樂んでゐたといふ。議論と秘かは結びつかない気もするけれど、どうやらかういふ手順を踏んだらしい。

 

 先づたれか(勿論アイリッシュ)と喋る。

 相手が喋つたことに反論をする。

 相手が更に反論すると、それにまた反論をする。

 何回か繰返すうち、周りのアイリッシュが我慢出來なくなつて論戰に参加する。

 頃合ひを見てその場を離れ、別の場所で別の相手をつかまへ、同じことをする。

 

 三回か四回、さうするとパーティの會場全体が議論で沸騰したやうになるので、老オトゥール(かどうか、はつきりしないが、まあ)は、その議論の渦に…伊丹曰く"熱い風呂に浸かるやうに"…身を浸すのを快としたといふ。

 大笑ひしましたね、初めて讀んだ時は。これはアイリッシュが登場するから様になる話で、フランスやドイツやロシヤなら、かうは面白くならない。アイルランドで文藝や議論がすすどい…すすどすぎる刃物のやうになつた背景には、あの土地の不幸な歴史が関つてゐるから、無邪気に喜ぶと咜られるかも知れないけれど。

 大笑ひした理由はもうひとつあつて、"我慢出來ず、議論に参加する"會場のアイルランド人の気持ちが、實によく解つたんである。熱い風呂のやうになつた議論に、正しさを主張したり、不義や不正を糺弾したり、眞理を求めたりする目的は無い。といふより寧ろ積極的に無目的と云つてよく、無目的がそのまま目的に転じてゐると云つてもよい。

 

 火は何かの為に燃えるだらうか。

 と哲學風な誤魔化しを入れて續けると、痩せた土地と馬鈴薯とヰスキィの他に何も持たなかつたアイルランド人にとつて、文字と議論(そして皮肉と諦観)は武器であり娯樂でもあつた。スウィフトとジョイスの名前を出しておけば、詳しい論証は省いていいと思ふ。併しさういふ武器兼娯樂を持つてゐたのはアイルランド男の特権であつた気もされる。

 かう書くと特定の方面から女性を差別するのかと怒りの聲が出さうだが、ちがひを指摘するのと、そのちがひを理由に相手を蔑むのはまつたく異なると先に云つておく。それで大雑把に纏めると、議論それ自体を酒席のつまみに出來るのは男の愉快だらうとわたしは思つてゐて、アイリッシュ・パーティで老オトゥールに引つ掛けられた論客の気持ちが解ると云つたのには、さういふ理由がある。

 

 女のひととは議論が成り立たない。成り立ちにくい。議論は理窟の積み重ねなのだが、どうやらその積み重ね方がちがふ(らしい)から、といふのがわたしの経験則である。丸太の経験なんぞ、当てになるほど豊かでもあるまい、と云はれる可能性は高いし、さう云はれたらもごもごせざるを得ないのは認めるとして、前述の経験則が間違つてゐると断じるのも六づかしくはなからうか。…男が相手ならこれを切つ掛けに議論が始まる。おれたちの日乗、もしかして人生にも欠かせない女といふ生きもののロジックは、どんな風に始まり、また展開してゆくのだらう、と。

 

 ここで念を押すと、女性がロジカルではない、とわたしは思つてはゐない。繰返しを承知で云へば、その構造がちがふから、こちらの理解が及ばないのではないかと考へてゐて、たれの言だつたか、その根つ子を"八百屋のリアリズム"と呼んだのを思ひ出した。どんなコンテクストで用ゐられたか、すつかり忘れたから、その点に留意は必要として、巧いことを云ふものだと感心したのは間違ひない。では"八百屋のリアリズム"とは何なのか。コンテクストを忘れてゐるのは上記のとほりだから、以下は丸太の勝手な解釈である。

 

 玉葱や馬鈴薯やキヤベツを買はうとする時、一盛りだか一袋だかの値段や量や鮮度を、八百屋のAとBとCで比較したとする。玉葱はA、馬鈴薯はB、キヤベツはCがお買得だつたとして、三軒を巡るといふ判断はそれぞれで正しい。

 

 詰りこれが"八百屋のリアリズム"…女性の立場なのだが、一方で買物が玉葱と馬鈴薯とキヤベツだけではない場合、或はAとBとCに距離がある場合、それぞれの正しい判断を集めた全体像で見て、矢張り正しい判断と呼べるかどうか(たとへば全部の出費や移動の時間)には疑念が残る。

 厄介なのは全体の判断が正しいと呼べなくても、個別の正しさは覆らず、個別の正しい判断が全体の正しさを保證しないことで、このコンセンススが取れないままだと、話が果しなく噛み合はなくなる。うつかりすると女性(貴女のことですよ。念の為)の機嫌を損ねるだけの結果になつて仕舞ひかねず、それは實にこまる。その意味でもまことに厄介と云はねばなるまい。

 などと云つたら、すりやあ丸太が"八百屋のリアリズム"の正しさを理解するべきだね、と云はれるだらうが、わたしとしては男の議論…遊戯と呼んでもいい…は、"正しさの衝突"ではなく(いづれにも一応の理はあるのだから)、一方を引つ込める必要は無いと、改めて申し上げねばならない。それぞれの正しさの差違を理窟立てるのが、遊戯としての議論であつて、言語のゲームだと云つてもいい。このゲーム…正確にはゲームのルールが健全に機能し、また發達すれば、裁判での辯護士と検事やら國會での議員同士の打々發止も、老オトゥールをうつとりさせるくらゐの熱さになるだらう。