閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

816 小道具のひとつ

 手元に三台、玩具デジカメがある。デジタル・カメラと呼べる性能ではないから、玩具デジカメといつておく。

 低画素。

 使へるメディアの容量が限られてゐる。

 乾電池で動く。

 思ひ浮ぶ特徴…でもないか…はこの辺か。身も蓋もなく云ふなら、冩眞を撮るのに使へるものではない。他にちやんとしたカメラを持つてゐるひとが気紛れに試して

 「これあ、ひでエなあ」

さう苦笑ひ(大笑ひでもいいよ)するのが正しいと思ふ。

 旧ソヴェトにロモといふフヰルム・カメラがあつた。今もあるかは知らない。プログラム露光のコンパクト・カメラ。ソヴェトの電気カメラである。この時点で既に怪しい。このカメラで撮られた冩眞を見たが、性能の点では同時期の日本製カメラにまつたく及ばない。併し世の中は判らなくて

 「そこが、いい」

と、一時期、数寄者のあひだで流行したらしい。出來の惡いレンズと信用し難い露光が、"エエ感じやンか"と思はせる冩眞を生むのだ…とか何とか、そんな話を耳にした記憶はあるけれど、噂の域を出ないから、信じてはいけません。

 ここで冩眞の偶然性と冩眞師の意図について、一席ぶつてもいいが、詰らなくなるから玩具デジカメに戻る。ロモが受けた(らしい)のは、当時のカメラが

 「たれが持つても、大体は綺麗に撮れる」

と云へる程度まで完成してゐたところに、さうではない(良くも惡くも工夫が求められる)カメラとして認知されたからと思はれて、これも冩眞やカメラの消費術とは云へる。その線を延ばすと、玩具デジカメに繋がるのだが、そこには

 「ロモが賣れたンだから」

ね…といふ厭みが(微かに?露骨に?)感じられる。ここで我われはB級映画聯想したい。B級映画B級映画なのは、その積りで作つたわけではないのに、苦笑哄笑を禁じ得ない結果になつて仕舞ふからで、最初つから

 「あのB級が賣れたんだから、眞似を」

するかと作つたら、B級とは呼べますまい。玩具デジカメにはさういふ匂ひ、臭みがある。我ながら手酷いな。

 とは云ふものの、惡いことだけで切り捨てにくい面も玩具デジカメにはあつて、第一に廉である。精々が数千円程度だから、思ひつきで買つても、何の負担にもならない。第二にはカメラらしくない、併しカメラかも知れない姿のお蔭で、たとへば呑み屋の席で話の種になる。

 「それあ、何ですか」

 「カメラなんですよ。使へる性能ではありませんが」

へーえと笑つてもらへれば、そこから話題は幾ら逸れたつてかまはない。身も蓋もなく云へば小道具なのだが、それもまた機械の消費術ではないか。勿論撮つてはならぬ筈もないから、實際に使つて見せれば、それも肴のひとつになる。けふはこれから、玩具デジカメを一台、ポケットに突つ込んで、馴染んだ呑み屋に出掛けるとしませうか。