手元に三台、玩具デジカメがある。デジタル・カメラと呼べる性能ではないから、玩具デジカメといつておく。
低画素。
使へるメディアの容量が限られてゐる。
乾電池で動く。
思ひ浮ぶ特徴…でもないか…はこの辺か。身も蓋もなく云ふなら、冩眞を撮るのに使へるものではない。他にちやんとしたカメラを持つてゐるひとが気紛れに試して
「これあ、ひでエなあ」
さう苦笑ひ(大笑ひでもいいよ)するのが正しいと思ふ。
旧ソヴェトにロモといふフヰルム・カメラがあつた。今もあるかは知らない。プログラム露光のコンパクト・カメラ。ソヴェトの電気カメラである。この時点で既に怪しい。このカメラで撮られた冩眞を見たが、性能の点では同時期の日本製カメラにまつたく及ばない。併し世の中は判らなくて
「そこが、いい」
と、一時期、数寄者のあひだで流行したらしい。出來の惡いレンズと信用し難い露光が、"エエ感じやンか"と思はせる冩眞を生むのだ…とか何とか、そんな話を耳にした記憶はあるけれど、噂の域を出ないから、信じてはいけません。
ここで冩眞の偶然性と冩眞師の意図について、一席ぶつてもいいが、詰らなくなるから玩具デジカメに戻る。ロモが受けた(らしい)のは、当時のカメラが
「たれが持つても、大体は綺麗に撮れる」
と云へる程度まで完成してゐたところに、さうではない(良くも惡くも工夫が求められる)カメラとして認知されたからと思はれて、これも冩眞やカメラの消費術とは云へる。その線を延ばすと、玩具デジカメに繋がるのだが、そこには
「ロモが賣れたンだから」
ね…といふ厭みが(微かに?露骨に?)感じられる。ここで我われはB級映画を聯想したい。B級映画がB級映画なのは、その積りで作つたわけではないのに、苦笑哄笑を禁じ得ない結果になつて仕舞ふからで、最初つから
「あのB級が賣れたんだから、眞似を」
するかと作つたら、B級とは呼べますまい。玩具デジカメにはさういふ匂ひ、臭みがある。我ながら手酷いな。
とは云ふものの、惡いことだけで切り捨てにくい面も玩具デジカメにはあつて、第一に廉である。精々が数千円程度だから、思ひつきで買つても、何の負担にもならない。第二にはカメラらしくない、併しカメラかも知れない姿のお蔭で、たとへば呑み屋の席で話の種になる。
「それあ、何ですか」
「カメラなんですよ。使へる性能ではありませんが」
へーえと笑つてもらへれば、そこから話題は幾ら逸れたつてかまはない。身も蓋もなく云へば小道具なのだが、それもまた機械の消費術ではないか。勿論撮つてはならぬ筈もないから、實際に使つて見せれば、それも肴のひとつになる。けふはこれから、玩具デジカメを一台、ポケットに突つ込んで、馴染んだ呑み屋に出掛けるとしませうか。