閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

798 遊戯風の贅沢

 伊丹十三のエセーで讀んだのは間違ひないが、前後の文脈は忘れて仕舞つた。記憶に残つてゐるのは"ダッグウッド・サンドウィッチ"といふ単語で、三段だか五段だか、兎に角ハムだのやはらかく炒めた玉子だの、トマトにレタースにチーズにベーコンにピックルス…まあ何でも冷藏庫から引つ張り出した、麺麭にはさめるものを思ふままにはさんだサンドウィッチを指す。らしい。らしいと云ふのはそのダッグウッド・サンドウィッチはアメリカの漫画での呼び方で、實物を目にしたことがないからである。アメリカ人に知り合ひがゐたら、さういふ名前のサンドウィッチがあるのか、あるとして相応に食べる機會があるのか、確められるのに、さうした知人がゐないのは残念でならない。

 矢張り伊丹のエセーで、"サラド・ニソワース"の名前も忘れ難い。これは大きなボウルでドレッシングを作り、そこにうで玉子やら胡瓜やらトマトやらオイル・サーディンやらオリーヴやらソーセイジやら、思ひつくものを何でも入れる。ボウルの中で全部を混ぜ合せたらそのまま食卓に出すさうだから、何とも賑やかなサラドと云つていい。ニソワースと呼ぶくらゐだから、ニース風なのかとも思へるが、残念なことに南佛人にも知り合ひはをらず、こちらも確める術が無い。併し文脈からはおそらくは家庭料理だと思はれる。だからドレッシングの味つけや、必ず入れる種にちがひがあらうとも思へて、ニース人が葡萄酒を呑みながら、侃々諤々の議論に興じてゐると想像するのは愉快な気分になる。

 ダッグウッドとニソワースに共通するのは、お祭りのやうや賑々しさで、我が國から対抗馬を出すなら、内田百閒が紹介してくれた魚島寿司…備州流の絢爛豪華な散らし寿司くらゐではなからうかと思ふ。さう云へば魚島寿司は豪農豪商の遊戯的な食べもので、アメリカ人のサンドウィッチにもニース人のサラドにも、遊戯の気配が濃厚ですな。リストランテや料理屋で出すのは躊躇はれるかも知れないが、ご家庭の特別な日や友人を招いたパーティに用意し、或はたれかに贈るなら、こんなに似つかはしい料理もない。賑やかで花やか。無駄に豪華。この"無駄に"が實は大事で、気分やお財布に遊びの余地が無ければ成り立たない。もつと云ふとその無駄や遊びは文化の基底、或は文化そのものであつて…いややめませう、かういふのは。わたしの柄ではありません。

 大ぶりの清潔なお皿。

 分厚くて深いボウル。

 綺麗な塗りの重箱。

 蓋なり何なりを開けた時、さういふ大きな器に、賑やかで遊戯的な食べものの蔭が見えたら、すりやあ喜ばしい気分に満たされるのは人情の当然であるし、たれかが用意してくれたなら、こつちだつて麦酒でも葡萄酒でもお酒でも、奢らうといふものだ。自分で用意するのだつて惡くない。ただこの場合、思ひきつて贅沢…といふより、後先に目を瞑る気分で作るのが好もしく、また望ましく、何よりうまい。ダッグウッドで云へば、麺麭とハムとトマトは厚切り、玉子はどつさり、ピックルスはたつぷり、バタもマヨネィーズもケチャップも(その他自慢のソースも)惜しまず使ひたいもので、こんな時に素材の風味がどうかう云ふのは、食通でなければ、お茶の時間にキューカンバー・サンドウィッチを嗜む英國紳士くらゐに決つてゐる。

 それで話が英國経由で伊丹十三に戻る。キューカンバー・サンドウィッチは(確か薄切りの)麺麭で、薄く切つた胡瓜を挟んだスタイルだと、かれのエセーで教はつた。何とも寒々しい気もするが、お茶にあはせて摘むなら、これくらゐで丁度いいのかも知れない。併しあのエセースト(俳優であり映画監督でもあつた)は、ヨーロッパ贔屓でアメリカを好まないひとだつたのに、サンドウィッチのくだりでは、キューカンバーよりダッグウッドの話題の方が樂しげに思へた記憶がある。別のくだりだと、孫娘が出來たら小錢を渡してカツパンを買ひに行かせたいとも書いたくらゐだから(叶はなかつたのは悲劇と呼ぶしかない)、遊戯風の贅沢といふ我われが持ちにくい感覚を身につけてゐたのだと思ふ。

 その遊戯風の贅沢にお金は要るけれど、お金があれば出來るとは云ひにくい。第一流の料理屋で出される膳と、町中の親子丼を、等質に喜べる感覚が欠かせないし、それは贖へる感覚ではないもの。話が変な方向に大きくなりさうだから、踏み込むのは止しにするけれど、カーニバル…といふか、お祭りの山車のやうな食べものを樂めるひとと、さうでないひとの間には、案外なほどはつきりした線が引けるのではないかと思はれる。ある晩にうんと小さなニソワース風サラド…大きさで云ふなら熱海くらゐだらうか…をつつきながら、さういふことを考へたので、この際だからメモしておく。