閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

839 残り半分

 家に引き籠つてゐると、外で呑む機會がぐんと減る。元々が出不精なので、出掛ける気になりにくい。尤もそれが家で呑まないのと一致しないのは当然で…いやかう云ふと、我が辛辣な讀者諸嬢諸氏から

 「内外は知らず、呑んでゐるなら同じぢやあないか」

きつと云はれるだらう。半分くらゐ、正しい。そんなら

 「残り半分は何だ」

と更に疑念を示されるのは予想してあつて、この稿はその残つた半分に就てである。

 

 家で"呑む"(詰り"晩酌"とは異なる)のは翌日が休みの日で、お晝過ぎから始める。出来合ひのサラドやお惣菜、お弁当なぞをつつきながら、麦酒や罐入りの酎ハイ、葡萄酒または日本酒を夜までやつつける。

 呑み續けはしない。ラヂオを聞き、内田百閒や吉田健一の随筆に目を通したり、暫く讀んでゐなかつた小説を手に取つたりもするから、その間が空く。半日程度で、六本入りの麦酒を一パックと葡萄酒が一本くらゐだから、時間は掛かつてゐるが、どうといふ量でもない。

 惡くないですよ。伊丹十三の若書きのエセーに酒量を問はれて穏やかに、ぼくたちは時間で計るんですよ、廿時間から卅時間かな、と応じる一節があつたと記憶するが、それに近いと云つたら、恰好をつけすぎだらうか。併しかういふ呑み方だと、醉ひが淺いまま、どうかすると翌朝まで續く。

 

 繰返して云ふと、惡くない。

 家の中に限れば、であれば。

 

 過日、気が向いたから、呑みに行かうと思つて出掛けた。歩ける所に小さな店があるからそこにした。そこの小母さんには顔を覚えてもらつてゐて、席に着くと冷藏庫からサッポロの壜を出し

 「これにしますか」

と云つてくれたから、さうすることにした。もつ煮をつつきながら一ぱい。ハムカツを追加しつつ、もう一ぱい。小振りのコップに半分ほど注いで、きゆつと呑むのがうまい。麦酒が空になりさうなのを見て、お代りにハイボール、それから串焼き(葱と獅子唐、それからはらみを二本)を註文した。

 ハイボールに口をつけたら、ちよいとまづいかも知れないと思つた。ハイボールでなく、醉ひの廻り方。体調がをかしいのかと不安になり、いや待てよ、呑む速さが家にゐる時とまつたくちがふぢやあないか、と考へなほした。

 壜麦酒一本がおほむね五百ミリリットル、ハイボールはもうちつと少いか、それでもあはせたら一リットル近くにはなる。家で呑む罐麦酒なら三本くらゐ、葡萄酒なら一本余り。上述したやうに、家では呑み續けないことを思つたら、二時間は掛ける量を倍以上の速さで体に入れ、醉ひの廻りが異なつて感じなければ、そつちのが妙ではないか。

 待てよ妙だぞ。

 

 いや最後の妙は先刻の妙とは別であつて、外…店で呑む速さが本來おれが呑む速さだつた。その筈である。その速さに体が戸惑つたといふことは、いつの間にやら、おれの呑み方が内向きに変つたのを示してゐる。

 ははあ。

 呑む量自体がぐんと減つたのではない。

 一ぺんに呑める量が劇的に減つたのか。

 成る程。

 さう気がついて驚いたと、白状しなくてはならない。これは店からすれば迷惑…仮にさうではなくても、困りものではないか。あつちは呑み喰ひさせてなんぼだもの。この変化が残りの半分。さう気がついたから、ハイボールは意識してゆつくり呑み干し、お勘定を済ませた。帰つてからシャワーを浴び、罐麦酒を一本、呑んだのはここだけの話である。