閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

917 令和最初の甲州路-雨天晴天(後)

 窓から見た空は薄暗かつたけれど、雨に祟られる気配は感じられなかつた。前日に買つてあつた穴子のお寿司とアサヒのエフ。頴娃君とは遠隔式で朝の會を始めたが、どういふわけだか、東横インWi-Fiに繋がらない。本体の再起動やSIMカードの挿抜で直らなかつた。けふはサントリー登美の丘ワイナリーに行く。甲府の驛前から、無料のシャトルバスが運行される。時刻表にあはして、ロビーで落ち合つた。そのロビーで部屋とは異なるSSIDに繋げてみたら、すつと接續出來た。成る程、ルータの問題らしいと判つたが、時間がなかつたから、フロントには云はず、バス停に向つた。既にバスは停つてゐる。乗り込むと、既に先客が数人ゐた。我われより素早いとは、余程の早起きでなければ、暇を持て余してゐるのだと思ふ。

 

 定刻通り、バスは發車。山梨交通の車輛である。甲府驛前にあつた[山交百貨店]は、[ヨドバシカメラ]になつたが、本業は相応に繁盛してゐるらしい。ぼんやり考へる内、バスは市街地を抜け、坂を上りだした。甲府盆地の底から、縁の辺りに向つてゐると見ればいい。鮮やかな緑と木々の蔭に彩られた路は、漠然と記憶にある。そこを過ぎるといきなり、近代的な建物が姿を顕した。登美の丘ワイナリーである。社員といふのか、係員と呼ぶのか、次々と丁寧にお辞儀をしてくれるのが目に入つて、照れくささを感じつつ、バスを降りた。

 目の前にある小さな建物に入つて、受附を済ました。参加するのはちよいと豪華な、"from Farm ワイナリ"ツアーである。価は五千円。

 「富士見なんとかから始めますから、そちらでお待ちください」

と案内された。葡萄畑を左右に見て階段を上がる。遠くに目をやると、晴れた空の彼方、富士の山は雲に隠れてゐる。富士見なんとかから姿を見るのも無理だらう。

 「空気が湿つてゐる所為ですか」

 「御山を見るなら冬なのでせう」

お手洗ひを使つて、富士見なんとかに入ると、同道の紳士淑女が既に集ひ、ざはざはしてゐる。いよよ始まるなあと、いい気分になつたところで、"from Farm ワイナリ"の案内役である女性が登場した。

 「けふ、ご一緒いたします、ヨダと申します」

たいへん落ち着いた聲音である。好感を抱かないわけにはゆかない。出發前にヨダさんが

 「日本ワインと國産ワインのちがひを、御存知でせうか」

説明をしてくれた。前者は純國産…葡萄の栽培から壜詰めまで行つた銘柄、後者は壜詰めを國内で行つた銘柄を指す。それで"from Farm ワイナリ"は

 「サントリーで醸つてゐる日本ワインの御紹介、といふことになります」

では先づ、葡萄畑のご案内から始めませうと、我われをマイクロバスまで引率してくれた。

 サントリーの葡萄畑は、出發点より更に高い標高の場所に広がつてゐる。バス内でヨダさんから、このワイナリーは明治四十二年に"登美農園"として開業したと教はる。淀川長治土門拳の生年でもある。この農園をサントリーの前身である壽屋が引き継いだのは、四半世紀余りを経た昭和十一年。シャリアピンが來日し、その名を冠したステイクが考案された。我がGRⅢを生んだリコーの設立、阿部定事件ベルリン五輪の開催、沢田教一長嶋茂雄和田誠の生年。"登美農園"から数へて百十余年、サントリーが引き受けて間もなく九十年になるのだな。

 

 バスを降りて、展望台(と称する小さなスペース)に上がつた。八ヶ岳南アルプス、たつぷりの湿気を含んだやうな雲は矢張り、富士の御山を隠してゐる。ヨダさんも残念に思つたらしく、我われに

 「うまく晴れてゐたら、こんな風です」

と大きな冩眞を見せてくれた。くつきりした姿は確かに美事だけれど、あつけらかんとしすぎてもゐる。けふみたいに想像を働かすしかない風景の方が粋かも知れない。

 展望台を下りた我われは、サントリー自慢の葡萄畑に足を向けた。皐月の時候はまだ生育が足りてをらず、一部にごく小さな實が成つてゐる程度である。同じ品種を標高の高い所とひくい所で育て分けるさうで

 「それで同じ葡萄でも、味はひが異なつてきます」

別の場所で育てた、たとへばシャルドネを、最終的にブレンドするのがサントリーの基本的な技法なのだといふ。

 「単一の畑で採つた葡萄("キュヴェ何々"とか名附けられる)だけを使はないのですか」

 「ボルドー辺りのワイナリーだと、そちらが主力ですね」

少し曖昧な口調に思つた。土地やひとの好みで葡萄の栽培や醸造がちがふのは当り前だし、ヨダさんがそれを知らない筈はない。曖昧といふより、言葉を控へたのだらう。

 さて。ここで私はあることに気が附いた。勿論ヨダさんに就てで、彼女の話し方はまことに好もしい。聲のトーンや早さもさうだが、もうひとつ、"~させていただく"といふ云ひ廻しを殆ど使つてゐない。お客相手に案内をする仕事では、頻繁に用ゐられ、併し(私の)耳に不快に響く云ひ廻しが、非常に少い。何をどう話すのか、色々工夫を凝らしたにちがひない。さう気が附いて、いい気分になり、感心もした。

 「ところで」感心の後、不意に疑問が浮んだので、ヨダさんに「葡萄の樹つて、何年くらゐの寿命でせうか」

 「さうですね。ここでは大体卅年くらゐで、植替へることにしてゐます」

植物としての寿命はもつと長いが、卅年も経つと、實の出來が覿面、惡くなるのだといふ。續けて

 「植替へをする場合、その畑は一年ほど、休ませます。その後、病気に強い根に、シャルドネピノ・ノワールを繋げるのです」

 「いはゆる接ぎ木ですか」

横から確認の聲があがつた。ヨダさんはさうですと頷きながら、手近な葡萄の樹を指して

 「下の方を見てください。接ぎのところが判ります」

皆でわらわらしやがむと、成る程、あからさまにちがふ箇所がある。實るのはちやんとシャルドネカベルネ・ソーヴィニヨンで、根つこの品種はあくまでも土台の役割を果すといふ。異なる果實でも事情は同じなのか知ら。

 「それでは、貯藏庫のご案内に参りませう」

ヨダさんの聲で、疑問を解く間もなく、我われはマイクロバスの乗客になつた。

 

 貯藏庫の扉には、大きな文字で、セラーNo.4と記されてゐる。他にNo.1からNo.3のセラーがあるのは間違ひない。この第四セラーは見學用なのだらう。扉の中は暗い。ひいやりともしてゐる。無論どちらも意図的で、葡萄酒の貯藏は冷暗所にかぎる。庫の奥まで並んだ樽が目に入つた。保管の都合で樽の傍にはゆけなかつたが、得体の知れない來訪者にぺたぺた触れられるのを避けたいのは当り前といつていい。

 横の扉を開けたヨダさんが、普段は眞面目な女生徒が、珍しくも惡戯を思ひついたやうな聲で

 「ここからは山を刳り貫いた庫になりますよ」

と云つた。壜の貯藏庫である。成る程、通路の幅は決して広くなく、天井もひくい。惡の秘密結社の秘密基地みたいだ、怪人が出さうだぞと思ひ…併し口にするのは控へた。私だつて、それくらゐの気配りは出來る。

 壜貯藏の棚はがらんとしてゐる。出荷のタイミングが重つたかららしく、詰りヨダさんの責ではない。よかつた。更に進むと古いヴィンテージの壜が年毎に纏めてある。自分の生れ年が無いものかと思つたけれど、残念ながらそこまで都合よくは進まない。他にも表に出せない…量的にも値うち的にも…ヴィンテージの壜を見た。ははあと唸つた一同はヨダさんに導かれ、第四セラーの出口まで辿り着いた。先刻より少し高い場所だつたので、矢つ張り惡の秘密基地ではなかつたかと考へつつ、マイクロバスに乗つた。いざ、試飲。

 "from Farm ワイナリ"ツアーが始つた場所に戻つた我われを迎へたのは、整然と並んだ卓と、そこに用意されたグラスであつた。グラスの横には小さなチーズが置いてあつたのが嬉しい。お摘みのない葡萄酒は、福神漬を忘れたカレー・ライスにも及ばない。

 

・登美の丘 甲州 2020(白)

・登美の丘 2020(赤のブレンド)

塩尻 メルロ 2018(赤)

 

 呑んだ順である。

 いづれも佳し。

 以前はそれほどと思はなかつた、甲州種が實にうまい。

 登美の丘の赤は、肉魚介どちらでも適ひさうな安定感。

 葡萄酒それ自体の味はひなら、メルロが格ひとつ上か。

 食事にあはしてこの順に出たら、十分に満足出來る。計算づくの並びなら、随分と巧妙な罠である。と思つてゐたら、最後に凄いのを用意してきた。リースリング・イタリコ種の貴腐ワインである。2012ヴィンテージ。ヨダさんからの受け賣りを披露すると、貴腐は特定の品種を指さない。適切な時期にある菌が附着し、且つ適切な湿度を得ると、葡萄の水分が抜け、糖度が高くなる。見せてもらつた冩眞だと、實は干し葡萄か、上手が漬けた梅干しのやうになる。さういふ實で醸られるから、舌を溶かすみたいにあまく、それは果實に由來するあまみだから、(好みははつきり分かれるだらうが)厭な感じではない。

 受け賣りを續ければ、葡萄を貴腐化する菌は、いつ附着するか判らない。時期外れだつたり、湿度が不釣合ひだつたりすると、貴さを抜いた…ただの腐敗になる。ヨダさん曰く

 「菌が(比較的)附き易い場所はありますが、だから、都合よく貴腐化するとは限りません。それに貴腐化しても、どれくらゐ収穫出來るか、判りませんから」

 詰り毎年、醸れるわけではなく、収量も曖昧で、熟成に要する時間も長い。ごく少量しか出回らないのは当然だし、値段が附くのも納得がゆく。参考までに、供されたヴィンテージは、サントリーで一ばん若いが、それでも半壜で一万二千円。"from Farm ワイナリ"ツアーに参加して、往復のあずさ號に乗れるくらゐと思へば、篦棒とは呼べない。ただその一本を堪能するには、上等の銘柄が二本と、全体に適ふ料理が欠かせない。その辺まで含めると、"甲州制服襲學旅行"の予算全部を吐き出しても足りず…正直なところ、そこまでお金を出すなら、岩垂原のメルロや、上に挙げた登美の丘の赤で用ゐられたプティ・ヴェルド(他の品種はカベルネ・ソーヴィニヨン)に遣ひたくはある。

 試飲を終へ、頴娃君は散々迷つてから、塩尻メルロを贖つてゐた。余程気に入つたらしい。甲府市街地に戻るバスの時間が近くなつてきた。