閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

601 壜麦酒に就て

 呑み屋のメニュに壜麦酒があると嬉しくなる。多くはアサヒのスーパー・ドライ。時々サッポロの黑ラベルやキリン・ラガー。稀にサッポロ・ラガーこと赤ラベルサントリーのモルツ系統は殆ど見ない。ヱビスの黑(小壜)を置いてあるお店は一軒だけ知つてゐる。オリオン・ビールは沖縄めしを出すお店、青島麦酒には中華屋、ハイネケンクアーズ、ギネスは呑み屋よりパブに置いてある感じがする。

 

 わたしは麦酒で差別をしない立場だから、これは駄目だと思ふ銘柄は無い。

 わたしは麦酒で差別をしない立場だが、これは喜ばしいと思ふ銘柄はある。

 

 上に挙げた銘柄で云へば、赤ラベルが一ばん喜ばしい。尤もポーク玉子をやつつけるならオリオンだし、フィッシュ・アンド・チップスにギネスをあはさないのは、ひととして如何なものかと思はれ、またその一点では正しいけれど、さういふ特殊な例を、一般論のやうに扱ふわけにはゆかない。一般論的といふのは、壜麦酒にあはす(ことが多い)のは、鶏の唐揚げだつたり、韮玉子だつたり、鯵フライだつたりで、さういふつまみを想定した場合、オリオンの軽みやギネスの濃厚より、赤ラベルが好もしくなるでせうと云ひたいので、かう云つたら納得してもらへさうに思ふ。

 

 ジョッキに入つた生麦酒を呑むのが惡い筈はなく、まづいわけでもない。麦酒の塊を喉の奥にはふり込むのが、触覚を刺戟する快感なのは確かである。そこは認めるとして、果して旨いの範疇なのか知ら。どちらかと云ふとあれは、冬の夕暮れ、風呂に身を沈めた時、夏の午后に熱いシャワーで汗を流した時の心地好さに似てゐる。飲食とは別の快感と理解すればいいのか、麦酒が持つ潜在力の高さと考へるべきか。

 

 麦酒の味を感じたいなら、壜の方がいいと思ふ。大きすぎない厚手のコップに注いでは呑み干す。経験的に云ふと、麦酒は泡と一緒に呑んで、味が解る。では注ぎ方の上手下手で味が変るぢやあないか、と不満を洩らす向きもあらうが、麦酒の注ぎ方はそんなに六づかしくなく、その程度の練習を惜しんではならない。少々失敗つたところで、呑めないほどまづくなる心配もないのだから、安心してもらひたい。

 更に云ふと壜麦酒は、呑む早さを調節し易い。これは素晴しい利点である。實際ジョッキでだらだら呑むほど、麦酒をまづくする方法も無い。と云へば何となく、想像は出來るのではなからうか。ジョッキがおれのコップだと胸を張るひとがゐても不思議ではないが、少数派に決つてゐて、その嗜好は退けないとしても、さういふ特殊な例を、一般論のやうに扱ふわけにはゆきかねる。

 

 併しわたしにとつてもつと大事なのは、壜麦酒にはラベルが附いてあることで、さうかなあと首を傾げてはならない。お酒や葡萄酒を呑まうとする時、側に壜があつて、何々正宗やシャトー・ナントカのラベルが目に入つたら、きつと嬉しいでせう。わたしは嬉しい。さてそれで麦酒が例外になるだらうか。麦酒の格のひくさを根拠に、そんなことはないよと反論する余地かあるのは認めるが、尊敬する内田百閒は、壜麦酒を一ぺんに半打平らげたひとだし、同じく尊敬する吉田健一は、食堂車の卓に着き、辛子とソースをたつぷり塗つたハム・エッグスに壜麦酒をやつつける樂みを教へて呉れた。詰り壜麦酒には(間接的な)恩義がある。

 だつたら罐麦酒だつて、かまはないでせう。と尤もな指摘が出るだらう。出るにちがひない。云ひたいことは解る。解りはするし、普段のわたしがまつたくのところ、世話になつてゐる。こちらにも恩義はある。併しこつちの恩義を差し措いて云ふと、罐麦酒は(残念ながら)薄く明るい。麦酒のラベルは、壜の硝子の厚さとくらさに沈ませて似合ふ。元がそんな風に描かれてゐるからで、その部分だけを薄いアルミニウムに転冩して、収まりが宜しからぬ結果になるのは、止む事を得ない。スーパー・ドライは、罐麦酒への移行が進みつつある頃に出た所為か、寧ろ壜のラベルが不釣合ひに感じるけれども、小さな例外には膠泥すまい。

 

 記憶に残る一ばん古い壜麦酒はキリンのラガー(一番搾りの後に出した、クラシック・ラガーではないから念の為)である。父親の晩酌がその中壜だつたからで、わたしが初めて呑んだ麦酒、いや酒精もそのラガーだつた。ラベルに刷られたのは幻獸の麒麟で、鬣の模様の中にキリンの三文字が隠されてゐた。今もさうなのだらうか。

 かう考へると、壜麦酒の、特にキリン・ラガーに恩義がある筈なのだが、呑み屋のメニュにあつて喜ぶのは赤ラベルである。旨いのは勿論として、見掛ける機会が少い。罐麦酒では(限定的な醸造を除いて)出してをらず、わたしの動く範囲の呑み屋で云へば、大久保と東中野、中野の各一軒くらゐしか思ひ当らない。なので目にすると得をした気分になる。

 

 尤もさう云ひ出すと、壜麦酒を用意してゐる呑み屋自体、そもそも数が少いことを思ひ出さなくてはならぬ。何故でせうね。ビール・サーバーを置いて、ジョッキで提供する方が儲けになるのだらう。壜麦酒を一本空ける間に、ジョッキなら二杯か三杯、空に出來るもの。呑み屋も商ひだから、そこに文句を附けても仕方がない。大きに儲けてもらひませう。その儲けは先づ、うまいつまみに充て、更に壜麦酒にも目を向けてもらひたい。

 

 濃く煮た豚肉とうで玉子半箇。

 茄子の肉味噌炒め。

 

 後はそこに韮のおひたしを揃へたおつまみを用意するとして、さういふおつまみに似合ふのは、矢張り赤ラベル…壜麦酒の方が好ましい。酒席の情景としてしつくりくる。醉へば同じさなどと云つてはならない。いや云つてもいいが、わたしは同意しない。ちよいと気張つたお酒を、趣味のいい徳利とお猪口で出されると、嬉しいものだし、そのお猪口で呑む一ぱいがもつと旨くなるのと同じく、一本の壜麦酒で酒席の情景が好もしくなれば、その醉ひも心地好くなる。それで久しぶりに(この際だから赤ラベルにはこだはらず)壜麦酒を置いてある呑み屋に行きたくなつてきた。壜麦酒に就ての續きは、呑みながら考へることにする。