記憶に残る旧い漫画の話。
原案は隆慶一郎の『一夢庵風流記』で、この小説が抜群に面白い。それを『北斗の拳』の原哲夫が、少年漫画に置き換へた。少年漫画だから、小説で描かれた際どい場面はすつぱり、切り捨てられてゐる。
慶次郎前田慶利大は、戰國の末期に實在した武人…傾き者である。傾き者は華美と奇嬌を好み、戰を愛し、戰に愛された漢の意。極端に我が儘であつた反面、儀礼を弁へた教養人でもあつたといふ。
少年漫画の主人公である慶次("慶次と呼ばう"と云つたのは小説家らしい)は、徹頭徹尾、靭くて恰好よい。
それでいい。
我われは少年漫画の主人公が、現代的に悩み、苦しみ、のたうちまはる姿を見たいとは限らない。それに慶次の強靭には、"野垂れ死にする自由"と背中合せの危ふさがある。その覚悟は明確に示されないけれど、たとへば
「虎は何故、強いと思ふ。強いから、強いのよ」
といふ科白から、弱つた虎は狩られるものだといふ覚悟を感じても不思議ではない。
惜しむらくは、従者である捨丸と岩兵衛の描き方。かれらの言動はぶれが大きすぎる。慶次のキャラクタを強調する為なのは判るけれど、靭い主人公の近くにゐる並の人間は、讀者の代りでもあるのだから(『北斗の拳』から挙げれば、前半のバットに相当する立場)、ここに一本、筋を通してもらひたかつた。
隆の小説に熱中した身としては、不満を云ひ出すと切りがなくなる。ことに秀吉の"唐入り"に絡んだ朝鮮行きのくだりが、諸々の事情なのだらう、琉球行きに変更されたのは最たるところ(ひとつの挿話としての出來は惡くない)なのだが、詰らない比較は横に措いて、"豪壮な漢"を堪能したい時、これ以上に相応しい漫画も見つからない。