閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

758 メモ帖

 ミドリカンパニーのDiamond memoといふのを買つた。二重リング式のメモ帖で、百五十円くらゐ。何の為かと云ふと、メモの為であつて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は

 「だから何をメモするのだ」

きつと呆れると思ふ。後でちやんと話はしますから、少し辛抱してください。

 その前に。この手帖では以前から、何度も名前を挙げた、永井荷風の『断腸亭日乗』をまた、挙げなくてはならない。改めて云ふと日乗は日記の意。日記が文學になるのかどうかには、疑念と議論の余地がたつぷりあるとして(多くの、或は殆どの場合、結果的に"さうなつた"のではないか)、荷風がそのことを十分に意図してゐたのは間違ひない。

 「えらく、断定的な口調をする」

当然である。荷風じしんが所々に、"日記を浄書す"と記してゐるのだもの。推測も分析も省略出來る。

 手帖にメモを取り、日記帖に書き移す。

 といふのが、どうやら断腸亭の基本だつた。取つたメモがそのまま書き移された筈はなく、具合の宜しからざる箇所は省くか修正を施すか、しただらう。ここで云ふ"具合の宜しからざる"は、官権の目を憚るだけでなく、罵倒や情交のあれこれも含めてゐて、さうなると寧ろ、焼き捨てられたか、空襲で燃え尽きた手帖の中身が気になつてくる。我ながら趣味が惡いなあ。

 ところでわたしが今、主に使つてゐるのは、高橋書店の手帖(フェルテのシリーズ)なのです。ラパーの不恰好は気に入らないが、中は不満を感じにくい程度に、よく出來てある。細かい文句は幾つもあるのは勿論として、ただそれを云ひだすと、我が手で作らねば収まらなくなる。荷風は自らの手で和紙をつづりあはせ、日記帖にしたさうだけれど、流石に眞似はし辛い。

 その高橋書店の手帖は、気取つていふと、(文學的な価値はさて措き)丸太の公式な記録なので、出來れば穢い使ひ方はしたくない。とは云ふものの、普段のちよつとした、残す必要のないメモ(たとへばその日の買物)は、案外にある。乱雑な字も、その日限りの内容も

 「残しておけば、"公式の"記録が充實するんではないか」

といふ指摘は、確かに一理ある。一理は認めつつ併し、わたしの云ふ"公式な記録"は、正確や綿密とは意味が異なるのです、と居直る必要はある。

 『古事記』や『日本書紀』を思つてもらひたい。大きく出たと云はないで、まあ。

 両書の位置附けは日本…もちつと狭く、倭政権下で、と云はうか…の公式な歴史書、正史である。ではあるが、内容に信憑性があるかと云ふと甚だ疑はしい。歴史への考へ方が現代と丸でちがつてゐたからで、有り体に云へば

 「オホキミを中心にした政体が、支配の正統性を持つてゐるのだぞ」

といふことを示す為の道具であつた。支配の正統性は時間…過去にさういふ"事實"があつたと示すことで担保される。國譲りを例に挙げればいいでせう。

 要するに恣意的で改竄も(きつと平気な顔で)行われた。両書の編輯者は元の"事實"を前に、何を神話に押し込め、どんな風に血筋の流れを作るか、苦心しただらう。また政治的な勢力へ配慮する必要もあつた筈で、編輯會議では、侃々諤々の激論(それを編輯者たちが愉んだとは考へられる)が飛びかつたに相違ない。正史になる前の事實(正確かどうかは別として)が残されてゐないのは、勿体無い。

 おや。

 同じことをわたしは、断腸亭のくだりでも述べてあるぞ。

 手法に目を向けると、記紀と日乗の成り立ちは、構図…材料を掻き集め、取捨撰択と修正を施して完成させる…が似てゐる。片方は國家の支配に関はり、もう一方がまつたく文學的と、目的が異なつてゐるだけのことである。

 あの狷介な老人が記紀に學んだとは思へない。かれは少年の頃ら漢文を教はつたといふから、歴世中華王朝の史書編纂の手口(記紀にはその摸倣の面が色濃いと思ふ)を、漠然と知つたのだらうか。まあここは、小説家の技法を転じたと考へる方が、素直でありませうな。

 尤もその小説的な技法だつて、取材から巨細を組み上げる点では変らない。史書記紀の筆者編者を、小説家の一種または遠いご先祖と見立てれば…と云つて腹を立てるのは、歴史家と小説家のどちらだらうな…、荷風の態度はまことに伝統的だと云へなくもない。

 さういふ背景がある。

 と云つてミドリカンパニーに話を戻せば、恰好がつかうものだが、そこまで都合宜しくは進まない。歴史家でも小説家でもない男の無念、お察し願ひたい。

 一体にわたしは、小ぢんまりしてゐる物を好む。豊富な機能がコンパクトに収まつてゐると、気分がよくなるし、単機能に特化してサイズを切り詰めたのを見ると、よくやつたものだと感心する。

 大坂の家には古いふるいザウルス(九千八百bpsのFAXモデムと併せて七万円くらゐで買つた)や、品名は忘れたが確かカシオせいの"見えるラジオ"を残してある。今の家でも、どこかにPalmの端末(二万円くらゐで買つた後、一ヶ月も経たないうちに半額になつた)が転がつてゐる。色々と無駄遣ひだねえと笑はれても、まあそれはご尤もと応じる外にない。

 要するに。Diamond memoを手に入れたのは、歴史的ではなく伝統に則りもしない

 「物品に対する嗜好」

といふ背景が先に色濃くあつた。ミドリカンパニーに戻つたのはいいんだけれど、どうも話がせせこましくなつてきた。

 理窟をつければ、残したくない穢い字と内容を入れてしまへば、後々の自分と、もしかすると手帖に目を通すかも知れない人びとに、見栄を張れない不安がある。かと云つて、その場限りに必要なメモを無視も出來ない。その辺の鬩ぎ合ひに、荷風老が筋を立ててくれたのかと思へる。

 早速使つてみると、浄書の手間を除けば、存外に宜しい。紙の色目がもう少し、クリームいろに近ければもつといいと思ふが、贅沢は云ふまい。それでちまちま何をメモしてゐるかと云へば…冒頭、後でちやんと話すと書いたのは、取消しにする。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、どうせ詰らないことだらう、と考へてもらつてかまはない。勿論

 「いやもしかして、閑文字手帖では公にしてゐない、惡口雑言や罵倒や愛慾があつたりするのか」

さう思ふのもひとつの方向である。わたしとしては、この稿を書けた一点で、メモだけでなく、元まで取れてゐる。