閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

922 移る

 ところでここ最近、串焼きの好みが塩に移つてきた気がしてゐる。理由や切つ掛けが何だつたのか、自分でもよく解らない。云つておくと、串の塩焼きをきらつてゐたとか、そんな事情があつたわけではない。不見転で入つた呑み屋で、串焼きを頬張らうとするなら、たれ焼きの方が安定してうまいのは、経験的な事實だけれど、この何年かは不見転の呑み屋に入るなぞ、ほぼ絶無である。さうではない、詰り通つてゐる呑み屋は、どこもお摘みがうまい。そのお摘みに串焼きが含まれるのは当然で、塩串焼きがうまいのもまた、当然と云つていい。

 併しその馴染んだ(筈の)呑み屋で、串焼き(但し葱と大蒜と獅子唐は除く)を塩でと註文したことはない。ハラミだのレヴァだのネギマだの、或はおまかせで三本とか五本とか

 「焼き方は、まかせます」

と見繕つてもらふ。後はお店の大将が上手にやつてくれる。塩では頼まないと決めてゐるのではなく、何とも気耻づかしい。"塩だつてさ、恰好を附けてゐやがる"など思はれやしまいか、気になつてしまふ。正面から云はれた経験は無いし、仮に云はれたつて、気に病まずともいいんだが、気になるのは本当だから仕方がない。但し塩串焼きが出ると、そんなことはすつかり忘れるわけで、我ながらいい加減だと思ふ。

 最初は勿論そのままで囓る。囓つてから、具合次第で、七味唐辛子を振ることもある。偶に隣席で、出された途端、義務でも負つてゐるのか、七味唐辛子をばさばさ振りかける紳士を見かけるが、目にする度、座頭市の映画で勝新太郎がおでんの串を頬張る際に

 「かういふのはね、辛子を食べる積りでなくちやあ」

と云ひながら、辛子をどつさり塗る場面が思ひ出される。私だつて勝新太郎のファンだし、座頭市映画は大好きでもあるけれど、串を(七味唐)辛子で埋め尽くすやうな食べ方とは、多少の距離を取つておきたい。距離は置きつつ、囓りつつ、酎ハイだの何だのを呑む。案配の宜しきを得た塩と脂を洗ふのは快いもので、おれは今、呑んでいゐるぞと感じられる。