閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

975 安定の手帖

 神無月に入ると気になりだすのが、來年の手帖に就てで、勿論これは紙の、手書きの手帖を指してゐる。令和も五年が過ぎ去さらうといふのに、未だペンと紙かと思はれる向きもあらうが、そちらの方が使ひ易いんだもの。

 例年買ふのは高橋書店で、令和六年もさうなると思ふ。私くらゐの年齢になると、新奇な工夫を凝らした手帖は、新奇の分だけ、使ひにくく感じてしまふ。馴染みに深入りした游び人の云ひ訳のやうだなあ。

 

 ま、それは兎も角。

 

 高橋書店にも、種類は沢山ある。令和五年を任してゐるのは、文庫本大のリシェルだが、これより大きなサイズ、小さなサイズもあつて、持運びの容易さと、書ける広さに、ある種の関係が見られるのは、念を押すまでもない。

 どちらが優先かといふのが、毎年の迷ひの種。今はミドリのメモ帖を持ち出し、帰宅後、手帖に書き冩してゐる。『断腸亭日乗』で永井荷風が採つた手法の眞似である。メモ帖はまだ余裕があるから、順当にゆけばそれが續くだらう。

 

 順当に考へれば、だけれど。

 

 確かにリシェルのサイズを、中々気に入つてゐるのは事實として、手帖を家に置くのが前提なら、大きめの判型も、撰択肢に入る。ウェイスト・バッグに、はふり込まうと思ふなら、より小さな判型を撰ぶ必要がある。悩ましい。

 さうかう考へを進めると、(私にとつての)(所謂)定番であるリシェルが、最も無難に思へてきて、この無難は、ベターでなければ、安定感の意味。リシェルとは別の、薄つぺらな手帖を一冊、用意して、公私を分別する方法はあるにせよ、使ひ分けが面倒になるのは目に見えてゐる。日々使ふ手帖は矢張り、呑み屋と同じくなずんだ方がいい。