閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1049 視点

 随分と以前、どこの公園だつたかで、盆栽の展示を見たことがある。手間暇の掛かる趣味らしい。出來の良し惡しはさて措いても、丹念に育てただらう松の枝振りに感心した。同行の友人は、人工的に過ぎるねえと、審美的な視点で批判して、正しい一面を衝いてゐた。

 併しさうでない面もあつて、盆栽は園藝より庭園に近い趣味かと思ふ。我が賢明なる讀者諸嬢諸氏には念を押すまでもなからうが、庭園は造るだけでなく、その後の永續的な手入れが欠かせない。たとへば水戸は偕樂園の梅林を前に、自然は美しいなあと思ふ間抜けはゐないでせう。地形も植樹も蕾が緩む時期も計算づくで造られた…云はば人工の極致が偕樂園だもの。感慨が別の方向になるのも、当り前である。

 偕樂園に限らず、入念に計算され、丁寧に造られ、丹念に手入れされた庭園の一部を切り取り、うんと縮めたのが、盆栽の少くとも一面だと、私は思つてゐる。

 ここまで書いて、どこかの博物館で見た、江戸時代の蕎麦屋の屋台(復元模型)を思ひ出した。蕎麦とつゆと丼を綺麗に収める棚を設け、担げるくらゐの大きさに纏めてあつた。店の設備から蕎麦を供する為の必要だけを切り抜いて、屋台に出來るまで縮小されて、まつたく日本的だなあと感心した。盆栽のやうな藝とは異なる面もあるが、切り取りと縮小…圧縮志向の点で、両者が遠い親戚くらゐの距離にあると見るのは、間違ひだと云はれなささうに思ふ。

 もうひとつ、(些か強引に)聯想を進めれば懐石が浮ぶ。豪奢華麗には程遠いけれど、細部への贅の凝らし様、気配りの施し具合は、馳走の大庭園を盆栽式に落し込んだ如く…と云つて、咜られる心配は(心得違ひをやんはり、指摘されるか知ら)あるまい。こんなことを云ひだしたのは、上に挙げた画像の所為である。小さなお皿に、ちまちま盛られたお摘みを、盆栽的な圧縮の遠いとほい一族ではないかと思つたからである。まあ見方によつては、だけれども。