寒くなるとおでんが恋しくなる。
と書いたのはいいが、わたしが好むおでんの種は精々
大根
玉子
厚揚げ
牛すぢ
糸蒟蒻を結んだの
飯蛸
くらゐだから、そんなに多いとは云へない。
云へないがさうしたら
はんぺんはどうした。
餅巾着を外すのは如何なものか。
薩摩揚げを忘れるのは許し難い。
各方面から聲が上がりさうで、ここはもう、おでんといつても色々あるのだから仕方がないと居直りませうか。
田樂といふのがありますな。串に刺した豆腐を温め、味噌で食べるやつ。丸谷才一の『食通知つたかぶり』に、伊勢だつたかで、その豆腐の田樂(小さな塗り箱で供される)を食べるくだりがあつて、旨さうな描冩だつたな。
味噌田樂なら蒟蒻でせうと抗議するひともゐさうだし、實際蒟蒻の田樂も旨いと思ふが、ざつと調べた限り、豆腐が先らしい。いづれにしても、串に刺して温め、味噌を塗るのが田樂と考へてよく、おでんの呼び名は女房詞による転化…丁寧さを示す御が頭に附き、樂が省略された…である。官女も田樂…訂正、おでんに舌鼓を打つたのか知ら。
宮中の事情はさて措き、温めるのはこの場合、茹でるか焼くかの筈で、どちらを撰んでも中々贅沢な調理法だと思ふ。何しろ薪をたつぷり用意しなくてはならない。地下人が田樂で一ぱい、呑るべえと気がるに云へるまで、随分と時間が掛つたことだらう。現代人でよかつた。
ところでその現代おでん。
出汁を張つた大きな鍋に色々の種を入れて煮込む料り方が成り立つたのは、江戸期の終り頃以降かと思へる。
勝新太郎がおでんを頬張る場面が『座頭市』…あの映画は天保年間、詰り幕末の少し前が舞台…にあつて、その時は串で煮てあつた。但し座頭市は辛子を("喰ふ積り"でたつぷり)つけたから、田樂方式とは呼べない。
上の場面からは、おでんが流浪のやくざ者がちよいとつまめるくらゐ、ありふれてゐたとも考へられる。映画は根拠にならんよと云はれたら、確かにさうだけれど、時代考證はなされた筈だから、根拠は兎も角、参考程度には出來さうな気がしなくもない。
天保といへば江戸の醤油は、既に関西から運ばれた下リものから、銚子や野田産へと主流が移つてゐたかと思ふ。更に云ふと、鰹節を削つて出汁を引く技法も確立してゐたに相違なく、詰り自前の材料で、つゆとつゆを使ふ料理を用意出來た。きつとそれで頭の切れる親仁が
「味噌を別に誂へるより、つゆで(豆腐や蒟蒻を)煮けば早いんぢやないか」
と思ひついたのではあるまいか。實際はどうだつたか知らないが、どうせどこかの店で評判になつたのを受けて、あちこちで眞似をしたに決つてゐる。現代の目で云へば権利だの何だの、面倒な話になるにちがひないと思ふと、盗みあひが許される…といふより当り前の時代に、現代おでんの原型が出來てゐてよかつたと思ふ。
その現代おでんを贔屓にした吉田健一曰く、酒呑みは酒があれば満足で、外に何か望むとしたらおでんくらゐだと書いてゐる。酒通が云ふ山葵だの焼き海苔だの塩だのでなく、おでんを求める辺り、あの批評家らしいと思ふのは、わたしの勘違ひか。
ところで晩年の吉田は珍味佳肴の並んだ卓についても、殆ど箸を伸ばさなかつたらしい。相伴したひとが勧めても
「見れば旨いのは解ります」
と盃を舐めるに留めたさうで、粋もここまでゆくと、羨ましくない。併し、とここからは想像になる。吉田だつて、獨りで呑む夜には、ちよつとした肴を味はひはしただらう。もしかしておでんの豆腐をつまんだかも知れない。かういふ想像は愉快なもので、こちらも寒い夜、心を平かにして、熱燗を一本、つけてもらひたくなつてくる。