閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

377 鯖のこと

 先づ画像をご覧頂きたい。

 焼き鯖である。

 大根おろしがある。

 檸檬も添へてある。

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 沖縄珊瑚麦酒のケルシュを呑んでゐたら、出されたのが、この焼き鯖に大根おろし檸檬で、出されたといふのは誇張ではない。詰り註文をしたのではなく、附出しであつた。多分四百円とかそんな値段だつたらうが、こちらが席に坐つてから焼いて呉れたのだから、妥当以上に廉と云へる。名のある鯖でないのは勿論として、焼きたての鯖はまつたく旨いのだから、そんなことは問題にならない。

 

 鯖については何度か、或は何度も触れてゐる。困つたら鯖の話題とまではゆかない筈だが(自信は持てない)、もしかしておれは鯖を魚介で一ばん好んでゐるのかなと思ふ瞬間は確かにある。鮭の塩焼きや鯵の一夜干し、烏賊のお刺身が旨いのは熟知してゐるし、さうなると物尽し方式にあれこれ挙げたくなるが、ここでは我慢する。

 

 こちらの無知を前提に云ふと、鯖は鮭、鰯と並ぶありふれた魚ではないかと思ふ。鮭だと檀一雄が、英國のスモークト・サモンを“人工と自然のきわどい合体”と絶讚してゐたし、鰯はオイル・サーディンが有名なのは勿論として、『セサミ・ストリート』で、オスカーが“鰯の罐詰のサンドウィッチ”と云つてゐた記憶がある。

 余談ひとつ。わたしが小學生の頃の『セサミ・ストリート』は吹替無し。字幕も無し。科白は日本放送協会が出版してゐた本で確めてゐた。何年か過ぎて偶々目にした時、可愛らしい聲の吹替放送になつてゐたのには驚いた。

 

 鯖に戻る。

 “生き腐れ”と呼ばれるくらゐ、足が早い。我われに馴染み深い〆鯖や塩焼き味噌煮の類は、さうしないと食べるのが六づかしくなるからだが、ここでは寧ろ、さういふ面倒を厭はないほど、鯖は旨い魚であつた、魚であることが大事だと云つておきたい。また塩漬けにし、酢で〆め、味噌漬けにし、干し、燻した…詰り保存の手間を掛けた鯖を焼き、揚げ、煮つけ、蒸した鯖は實に旨い。保存はそもそも止む事を得ない手法だつた筈で、その止む事を得ない保存食を、樂しみに昇華させた先人の喰ひ意地と、それに応へた鯖には、(人類を代表して)感謝を捧げねばならない。

 

 罐詰(水煮をトマトで煮るとうまい)や、お弁当に鎮坐する塩焼き。味噌煮の定食。竜田揚げ(衣に少しのカレー粉を含ませると、麦酒のつまみに恰好)お酒のお供の酢〆。焙つた一夜干し。残念ながら食べたことは無いが、うまいにちがひないサンドウィッチと燻製。惜しむらくは骨が堅くて噛み砕けないことくらゐで(待てよ、臓物の塩藏…要は塩辛…はあるのだらうか)、ごはんに適ひ麺麭にも適ひ、麦酒にもお酒にも葡萄酒にも適ふ。ありふれてゐるゆゑ(鮭や鰯や鯵もさうだが)、様々の土地の調味料や酒精に似合ふ料理が工夫されてきた、これはささやかな證であつて、考へてみれば、大根おろしに添へられた檸檬も、舶來であつた。我われは鯖の調理史の中に生きてゐる。