閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

449 縄文の塩焼き

 ふと気になつたので、鯖の塩焼きの作り方を調べてみた。

 

 先づ鯖の切り身に塩を振る。

 暫く置いてから水気を切る。

 もう一ぺん塩を振つて焼く。

 

 煎じ詰めるとたつたこれだけで驚いた。本当かと思つて確めると、本当になのでまた驚いた。そこに大根おろしだの醤油だの酢橘だの薑だのがあればもつと歓ばしいけれど、焼きたてなら無くても特に不満は感じまい。

 なーんだ、簡単ぢやあないか。

 と考へて、いや待てよと自制心が働いた。鯖の具合を見、塩を撰び、振る量を調へ、火の調子を見計らつて焼くとなると、その手順は簡単ではなく簡潔で、簡潔な分だけ六づかしいのではあるまいかと感じたからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、この冷静さに手を拍つてもらひたい。

 

 いつでも食べられて、しかも旨い魚といふ一群を想定した時、鯖が鯵鮭と並ぶ重要な地位を占めるのは間違ひはない。鯖料理をいちいち挙げる煩は避ける。詰りそれだけの種類に恵まれてゐるので、鯖料理だけで撰手権を開けもする。また仮に世界鯖料理撰手権があつたとして、鯖の塩焼きが決勝戰まで進むのもまた容易な想像である。

 スウェーデンノルウェイから苦情が出るか知ら。

 「なんてつたつて、あたしのママが作る鯖の燻製が最高なんだから」

さう胸を張られたら、それはまあ、さうなんだらうなあとは思ふ。思ひはするんだが、そんなら

 「おれのばアちやんが炊いた鯖の味噌煮ほど、美味いものは無いさ」

といふ反論も成り立つ。鯖が原因で日本と北欧がいがみ合つては堪らないから、撰手権に家庭料理の出場は遠慮願はざるを得ない。我が北欧の讀者諸嬢諸氏には諒とされたい。燻製や味噌煮も實に旨いのだから。

f:id:blackzampa:20200331075158p:plain

  さ。話を鯖の塩焼きに戻しますよ。

 塩を振つて焼くのは、調味と調理の基本…といふより原型であらう。何が最初なのかなんて、勿論解る筈がない。我が國では縄文期から…とは云へざつと一万三千年ほどに渡る期間のどの辺りからなのか…食べられてゐたらしい。生き腐れと云はれるくらゐ足の早い魚なのに、縄文人にとつても旨い魚だつたのだな。

 おそらく最初は海水で煮立てた(大きな貝殻か亀の甲羅が初期の鍋だつたらう)にちがひない。それで

 「塩味とこの魚は適ふのだ」

といふ経験則を得て、塩を精製する技術が出來て、この間に何百年何千年過ぎたか知らないが、我われの遠いご先祖は鯖に執着し續けた…となると、果して旨いだけが執着の理由だつたのかと疑問が浮ぶ。詰り食べ續けられるほど、鯖はありふれた魚だつたのではあるまいか。我が國の鯖食は短く見積つて三千年に及ぶ事を思ふと、俄には信じ難い。尤も縄文期の人口は多くても卅万人まで達さなかつたらしい。仮に卅万人としても、鯖を常食出來たのは限られた漁撈民の更に一部であれば、鯖の生態系を壊すほど獲り尽くせなかつたと考へても筋は通る。我われにとつて、幸運であつた。

 矢張り、ごはんに適ふ。ごくありきたりに、お味噌汁、菠薐草のおひたしか若布と胡瓜の酢のもの、白菜のお漬物があれば満足。鯖は意外と脂がきつく感じられるので、口を洗へるやうな添へものを用意するのが宜しからう。

 「要するに、鯖の塩焼き定食だね」

と笑つてはいけない。食事の型といふやつは長年の経験に裏打ちされてゐる。またこの型は(云ふまでもなく)お酒にも応用出來る。ごはんとお味噌汁を引つ込め、徳利とお猪口、大根おろしにすればそのまま晩酌になるでせう。麦酒や焼酎だつてかまはないが、鯖の脂と渡り合ふ足腰の重いのでも、切れ味のすすどいのでも、好みのお酒を調へる方が、満足の度合ひは高さうである。さうして鯖の塩焼きを平らげながら、我らが縄文の人びとの鯖食に思ひを馳せるのは、惡くない樂みではなからうか。