閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

418 関白大根

 大根はどう料つてもうまい。

 鰤と焚合せて。

 おでんやもつ煮の種で。

 サラドに仕立ててもうまいし、もつと単純にお刺身のつまなんかもいい。大葉にくるんでもいいし、水炊きの時にしやぶつとしても、またうまい。[吉兆]の初代さんが書いた一文によると、焼き大根も旨いさうで、お寺で振る舞はれたのだといふ。そのまま齧つたとは思へないが、醤油を塗つたり味噌でも乗せたりしたのか知ら。気になるねえ。

 

 ここで疑問をひとつ。中華や西洋の料理で、大根はどの程度の地位を得てゐるのだらうか。栽培される種類のちがひはあるだらうし、絶無でもないのだらうが、我が國ほど歓ばれてゐない気もする。世界の大根料理を知つてゐるわけではないから、正しい掴み方かどうかは保證しない。ただその中で大根おろしは日本獨自の食べもの…食べ方であらう。某文學者が英國人の學者に

 「外國では大根おろしを食べますか」

と訊ねたところ(天麩羅を食べながらの対談だつたらしい)、即座に

 「食べません」

と返つてきたさうだから、ほぼ確實だと思ふ。残念ながら、英國學者が初めて大根おろしを食べた時の感想は判らない。きつと日本人は

 (妙な食べものを好むものだなあ)

感心したか、呆れたかにちがひない。文學繋がりで『吾輩は猫である』でも大根おろしはあしらはれてゐたのを思ひ出した。苦沙弥先生がタカジャスターゼ…消化剤の一種。明治廿七年に發明された。猫小説の連載は同卅八年からだから、胃病持ちの漱石先生が服用した可能性はある…を摂る為に大根おろしを嘗める序でに坊やにも嘗めさせるくだりがそれで、いやさうしたのだと美學者氏に話す場面だつたか、本がどこかに埋もれてゐて、確められないが、ハイカラ好みと伝統的な食べ方が妙な具合にぶつかつた感じがされる。

f:id:blackzampa:20200119080809j:plain

 

 かう書くと大根おろしにはそんなに伝統があるのかと疑問を抱く向きもあらうから、少し触れておきませう。食べものとしての大根おろしは十七世紀末期には既にありふれてゐたらしく、井原西鶴

 

 生板に釘山ほととぎす村雨大根おろしにふり雑り

 

と詠んでゐる。"雑り"の訓みは"マザリ"か。遡つて十七世紀初頭に編纂された『日葡辞書』にはすりおろし器具としての大根おろしが収載されてゐて、大根または根菜をすりおろす食べ方は、それ以前から珍しくなかつた…少くとも五百年以上の歴史を持つ事が判る。えらさうに書いたけれど、わたしも調べてみて少々驚いた。

 

 確かに大根おろしは、おそろしく簡単で…おろすのはまあ多少の手間だけれど…、おそろしく応用が利く。一ばん簡単なのは醤油をひとたらし。そこに刻んだ葱を散らしたり、しらす干しを入れたり、削り節を乗せてもいい。冷奴に焼いた厚揚げは勿論、熱くした豆腐に乗せて宜しく、豆腐や白菜や葱や豚肉と一緒に焚くのもまた宜しい。醤油を使はず、酢橘やかぼすや檸檬を用ゐるのも惡くない。天麩羅に欠かせないのは今さら云ふ必要もなからうし、蕎麦の種ものによく、水炊きや焼き肉にだつてよく似合ふ。秋刀魚の塩焼きに大根おろしがなかつたら、きつとわたしは激怒する。ここで

 「何だ矢張り和風の食べ方でないと駄目なのか」

と思ふのは早計とは云ふまでもなく、とんかつやミンチカツといつた天麩羅の応用は勿論、ハンバーグやスパゲッティでも活躍出來るのだから、『好色一代男』が伊太利で翻案されて評判を取るやう…と譬へるのは却つて判りにくいか。

 

 かう褒めてから云ふのも何だが、大根おろしが主役を張る機会はまあ、ありませんな。おでんやもつ煮だつたら

 「きつと主役級でせう」

といふ見立ては一応、感心するとして、併しどちらも群像劇料理だもの、純然とした主役とは呼びにくいと反論するのは許されるだらう。では無くてかまはないかと云へば決してそんな筈はなく、前述した秋刀魚の塩焼きや天麩羅は勿論、厚焼き玉子のお皿(厚手がいい)につんもり盛られた大根おろしと薑は、わたしの頤を解かしめる。

 演劇にしても映画にしても、その場を引き締め、或は花やかにする役者がゐるでせう。ゐなくても成り立たくはないけれど、何となく物足りなさを感じさせるやうな。大根おろしはその立ち位置をはつきりと占める。既に述べたとほり、相手役は多岐に渡り、大ヴェテランの女優からモデル上りの新人まで、老け役から若ものまで、自在にこなす力がある。實在の俳優に当て嵌めるとしてさあ、たれだらう。昨今の草刈正雄辺りが近さうに思へなくもない。

 また褒める方向になつたから、急いで文句を云ふ。尤も味や食べ方ではなく準備…即ちおろすのが大変に面倒なのはいけない。たれかの随筆で、漱石先生風に呼ぶと某作家の細君は毎晩、就寝前に丼一杯の大根をおろすといふゴシップを讀んだ。作家氏はそこにしらす干しだの鮭の罐詰だの、冷蔵庫の中の残り物を入れて夜酒の肴にするのだが、その話を聞いた別の作家が

 「ほう。それはまた亭主関白だなあ」

と感心した…寧ろ呆れたといふ。何故かと云ふに細君はピアノ奏者だからで、確かに指が商賣道具のひとに大根をおろさすのは大層な眞似である。併し裏返すと亭主の為に毎晩、大根をおろすのは、愛情表現の一種…おろしながら心を静めてゐたかも知れない…とも考へられて、作家氏がさういふ話を嬉々としてするのは、ややこしい惚気の顕れと見立てられなくもない。苦沙弥先生の細君はどうだつたのだらう。