閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

378 わざわざ出掛けること

 何で目にしたか忘れたけれど、東京は居ながらにして、世界中の美味いものを食べられる都市なのださうである。確かに見た記憶のある看板を順不同に挙げると、フランス、イタリー、ドイツ、イギリス、スペイン、ギリシア、インド、ロシヤ、ハンガリースウェーデンエチオピア、ブラジルなどが浮んでくるし、國内に限つても、札幌や山形、仙台から、金沢、京都、広島、島根、博多を経て、奄美から沖縄まで、各地の地名に見覚えがある。パリなぞは美食の都と呼ばれてゐるさうだが、あすこでマルセイユの料理を食べたくなつても、きつと苦心しさうで、さうすると東京は特異なのだなとは思つてもいい。尤もその特異さには、東京で、江戸前は兎も角、東京料理の看板を一向に見掛けないのも含まれる。東京は精々百五十年程度の歴史しか持たない満たない若い町だから、自前の料理を持つのは六づかしいのか。或は自前でどうかうする間もなく、内外の料理が入つてきたからとも考へられる。

 

 併しだから東京に住んでゐれば、それで平気なのかと云ふと、まつたくそんなことはなく、たとへば奄美の食べものに油素麺といふのがある。沖縄料理のそーみん・ちやんぷるーとほぼ同じい。實に美味いもので、黒糖焼酎とあはせると、それで豊かな気分になる。残念なことに奄美には行つたことはないが、東京でも樂しめるのは勿論で、ただ奄美で喰つたらもつと旨いだらうなと思ふ。当り前の話をすると、ある土地の食べものと酒精は、その土地で獲れるものや気候、ひとの気質といつたもので洗練されてゆくものだから、それと異なる土地で食べたとして、まづくはないにしても、本來の旨さとちがつてくる。良し惡しではなく、さうなのだといふことで、油素麺が芋煮でもスペイン風オムレツでも、その辺の事情は変らない。我われがある食べものを口にする時、その土地の風や太陽も口にするのだと考へると、東京は食べものが世界一の町なのではなく、食べものの巨大な型碌なのだと見立てることも出來る。尤もその型碌は食べられる。

 

 話を繰返すと、都内のパブでフィッシュ・アンド・チップスをつまみながら、ギネスをひつかけるのは、さして六づかしくない。そこで頭に浮ぶのは、これがロンドンのパブだつたら、どんな気分になるのだらうといふことである。シャブリに生牡蠣の組合せを試した時は、大したこともないと感じたが、パリのカフェでモレスキンに何かを書き附けながらだつたら(詰りヘミングウェイ気取り)、案外に旨いかも知れないとも思つた。それを實感するにはロンドンのパブやパリのカフェまで行く以外に方法はない。ギネスやシャブリは偶々思ひついたから挙げたまでのことで、前述の黒糖焼酎奄美を想像するのと、南北のちがひはあつても骨組みは同じである。さうは云つても、ロンドンやパリや奄美は、気らくに行ける場所ではない。香港のお大尽ぢやああるまいし。と嘆きたくなるのは大兄だけではないから、安心してもらひたい。

 

 それでもう少し東京からの距離を縮めると、鮟鱇といふのがある。フィッシュ・アンド・チップスや鰰と同じく、都内で鮟鱇の肝だの唐揚げだの鍋だのを食べるのは確かに容易い。そこは型碌の有難さとして、矢張り寒気凛冽の候、身を震はせながら茨城まで行くのが本筋であらう。眞冬の茨城なんか、何もないに決つてゐると嘯くのは勝手だが、眞冬の茨城で喰ふ鮟鱇が目的なら、外に何もないのは気にならないし、梅林だのお祭りだのは寧ろ余計である。折角だからどこそこの神社にお参りしたいとか、何とかいふ景勝地に立ち寄らうとか慾を出すと、神社や景勝地に行かねばならなくなり、行つてどうだと云へば、気分はせいせいするだらうし、美しいかも知れないけれど、それきりのことである上、鮟鱇が頭の隅にあれば、そのせいせいも美しさも腰が坐らなくなる。勿体無い。茨城辺りなら、東京から特別急行列車で二時間もあれば着到するから、直ぐの距離である。だつたら家を出る時から、頭の中を何時間か後に喰へる鮟鱇で満たして、幕の内弁当をつまみに罐麦酒でも葡萄酒半壜でも呑みながら、目に前に登場するのを待つ方が好もしい。わざわざ出掛けるのはさういふことで、東京の花々しい看板は、その為の素晴らしいガイド・ブックと云つていい。