閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

238 広がらない話 三題

◾️その一

 現物が手元に無いので、曖昧なままに書くのだが、伊丹十三が映画の撮影だかでヨーロッパに滞在中の話。宿泊してゐるホテルの伊丹の部屋に、三船敏郎がジョニ黒と畳鰯を手土産にふらつと遊びにきたのださうだ。これで一ぱい呑らうといふことで、それはいいのだが、さて畳鰯をどうするか。火を用意させるにも、ボイにどう命じればいいのか、さつぱり判らない。それでやむ事を得ず、備へつけのクリーネックス(と書いてあつたと思ふ)にマッチで火を点して畳鰯を焙り、ジョニ黒をやつつけたのだといふ。侘しく揺らめく火。ジョニ黒と畳鰯とグレイト・ミフネ(と書いてあつたと思ふ)画になる侘しさだなあ。

 ただ画にはなるかも知れないとして、クリーネックスは畳鰯を焙れるくらゐ、火を生めるのだらう。ひゆつと消えて仕舞ひさうにも思へる。伊丹の文章では火を点けるくだりをあつさりとしか書いてゐなかつたので、どんな風に用意したか、残念ながらはつきりしない。仕方がない。自分で確かめてみませうと思つた。灰皿に折り畳んだティシュー・ペイパー(クリーネックスではない)を置いて、水も隣に用意して、BICのライターで火を点けてみるだけのことだから、直ぐに試せる。さうしたら予想してゐたより大きな炎になつたから、少し計り驚いた。尤も煙草に火を移したら間もなく灰になりきる程度の燃焼時間だつたから、さうさう長いものではない。併しクリーネックス乃至ティシュー・ペイパーが十分にあれば、畳鰯を焙れるくらゐの火は用意出來さうに思はれる。


◾️その二

 現物が見当らないので、曖昧なままに書くのだが、司馬遼太郎は案外なほど直喩を好むひとだつたと思ふ。ヘミングウェイの文章を“生肉を指で掴み取る”やうだと喩へたのはその典型とも云へる。かういふ例は幾らでもあつて、ことに『街道をゆく』やその外のエセーでは、直喩の宝庫と云つてもいい。直喩といふと根拠もなく安易な印象に結びつくが、司馬はたとへばロシヤ帝國が西へと領土を拡げたのを“路傍の石を拾ふ”と喩へる。非常に判り易い上に、時のロシヤの伸長振りがくつきりと浮んでくる。凄い技術だと思ふのだが、司馬の譬喩の使ひ方を論じた文章は、目にしたことがない。書評家にとつていい題材になるだらうに、どうして取り上げないんだらう。

 譬喩の別方向を考へると、擬音…オノマトペと呼ぶ方が恰好いいだらうか…があつて、この扱ひはまつたく六づかしい。尊敬する丸谷才一が『文章読本』の中で、これまた尊敬する内田百閒を絶讚してゐる。尤も丸谷は慎重な教師だから、百閒のオノマトペはサーカス藝のやうなものだからと、眞似は厳に戒めてもゐる。譬喩…直喩でも暗喩でも…やオノマトペを使ふのは、文章を書くに当つて、大切な要素だと思はれるが、それらを苦手とするわたしは、そもそもの部分でこの手帖を續ける前に、學ぶべき事柄が多いのだらう。


◾️その三

 現物を手放したので、曖昧な印象で書くと、小説が上手いのと随筆が巧いのは別ものであらうと思へる。何故こんなことを思ふかと云へば、随分と以前に讀んだ高村薫の“雑文(これは本の帯に書いてあつた)”がたいへんに詰らなかつた記憶があるからで、小説の面白さ…デヴューの『黄金を抱いて翔べ』は、今讀むと粗も目立つが、それも含めて讀書の愉快を満喫出來る一冊であつた…に競べて、一驚を喫したのは忘れ難い。尤もこれを高村ひとりに押しつけるのは不公平な態度で、小説と随筆の双方を面白く讀ませる作家は、砂漠の中の砂金ひと粒のやうに少ない。

 池波正太郎の随筆には通人の厭みが微かに、塩野七生のエセーだと“知的な女性の大上段”が感じられる。吉田健一や内田百閒だと、小説と随筆の境目がぼやけてゐる。晩年の司馬遼太郎もここに含めていいだらう。丸谷才一は稀有の例外かと云ひたくなるが、さんま坂の先生は小説があまりにも寡作だつたからなあ。さうなると、小説と随筆の両方で樂しめる…樂しみ續けられる作家は、田辺聖子ひとりかも知れない。わたしは文章で方言を前面に出すのを、表記の面倒と伝達の面から好まないのだが、あのひとの場合、それが自然だと納得出來る。小説や戯曲、エセーと健筆をふるつた井上ひさしでも、かういふ(詰り東北方言を押し出す書き方)特権は得られなかつた。『吉里吉里人』にはもしかすると、その鬱憤が込められてゐるのだらうか。