閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

683 これも叉、昔の話

 これも昔の話であるとは、吉田健一の『東北本線』の冒頭で、短篇小説と呼んでいいのか、どうも判らない。随筆のやうでもあるが、架空と思しき人物(モデルとなつたたれかがゐるのか知ら)が登場し、抽象的なのか知的なのか、豚革の鞄から取り出したヰスキィとハムをつまみながら長いながい會話をするから、小説に含めていいのかとも思ふ。併しこの一篇を収めた『汽車旅の酒』の帯には、"至福の旅の時間を凝縮したエッセイ集"とあるのでまた判らなくなる。気にしてはならないといふことか。その『汽車旅の酒』に入つてゐる別の一篇、これは純然とした随筆なのだが、そこにこんな一節がある。

 

 生ビールにハム・エッグスという風なことになる(中略)にどうだというのではない。併し駅の食堂でそんなことをしているのだと思えば、ビールも旨くなる。

 

 また別の箇所にはこんなことが書いてある。

 

 先ずビールに、それからこれは無難だから、ハム・エッグスを注文する。(中略)、それで、今気が付いたのだが、昔の食堂車の料理があんなに旨かったのは、安い調味料をふんだんに使ったからではないだろうか。あれは西洋風の砂糖醤油の味だったのである。

 

 取り立てて贅沢な話ではないし、あつさりした描冩なのに何とも旨さうに思はれる。文學の力とは詰りかういふことなのだなと云つたら

 「たかが生ビールとハム・エッグスで、文學も何も、あつたものぢやあないでせう」

と笑はれるだらうか。併し麦酒とハム・エッグスが文學にならないのなら、お酒と炒り玉子(韮入り)も文學にならず、もう一歩踏み込むと、ホメロスが詠つた、神さまに贄を捧げた後の酒宴の場面もまた、文學ではなくなつて仕舞ふ。ここでえらさうに

 「そもそも俗を聖に転じさせるのは、文學の力(の一面)ではありますまいか」

などと附け加へると、話が膨れすぎるか。同じ膨らすならお腹の方がいい。そこでハム・エッグスに戻ると、ハム・エッグスで腹が膨れるものかどうか。作り方次第で満腹になれるとは思ふが、その豪勢なハム・エッグスをつつきながら麦酒を呑んで、"駅の食堂でそんなこと"をしてゐる気分になるのはきつと六づかしい。

 上の引用で省略した箇所には、ハムと玉子の両方に辛子とソースをたつぷり塗りつけると書いてある。吉田には失礼だが、まことに貧相な感じがして、併しその貧相は食堂車と生麦酒に似つかはしいし、叉旨さうにも思ふ。思ふと云ふのは試してゐないからで、令和の今、先づ驛の食堂なりどこなりでハム・エッグスを見つけるのが、困難な気がする。

 「とは云へ」と指摘が入りさうで「ハム・エッグスはそもそも、家で用意して食べるのが本筋ですよ」

 「さうかも知れません」

わたしとしても、そこは素直に応じたい。余程のハムと玉子で仕立てるなら兎も角、さういふハムと玉子なら、別の食べ方で出してもらひたくなる。さう考へれば、家でちよいと作る、作つてもらふのが、ハム・エッグス本來の姿であつて不思議ではない。記憶に残るのは家で朝食に出してもらつたハム・エッグスで、どこかの食堂や旅館でもハム・エッグスを食べたかも知れないが、すつかり忘れてゐるのだから、食べてゐないのと変らない。もつと云へば、家での朝食以外で食べた記憶が無い。

 「すりやあ流石に、極端だし、個人的に過ぎる」

 「さうかも知れません」

ここも頷かう。わたしは素直なたちなんです。併したれであれ、食べものへの(妙な)思ひこみはある筈だし、その切つ掛けを遡ると、幼い頃の食卓に辿り着く例(たとへば玉子焼き)だつて少くないと思ふ。但しそれを当然だし単純な話と笑はれるのはこまる。飲食の記憶や思ひこみは、個人の生活史とその個人が属する共同体の習慣とその共同体を含む社會の風俗が濃淡様々に混つた上に成り立つから、話はさう単純でない。ハム・エッグスに限つても、百人百通りのハム・エッグスがあり、その中には吉田健一流儀の味はひ方は勿論、わたしの朝食も含まれると思ふと、幼少の食卓はまつたく複雑で多彩、もしくはややこしい。

 

 何を書きたかつたのか。さう。

 "これも昔の話"の一文から随筆のやうな小説、でなければ小説の体裁をとつた随筆を聯想して、同じ本に収められたハム・エッグスの一節を思ひ出し、閑文字式に眞似出來ないかと考へたのだつた。さう考へて書き出すと、ハム・エッグスには縁が薄く、驛の食堂には縁が無いものだから、どうにもならなくなつた。鉤括弧を入れて會話風にしたのはその名残である。眞似をしたくなつた理由を白状すると、少年だつたわたしが抱いてゐた小説を書くことへのあくがれが、どうした弾みか、不意に顔を出した為らしい。(小説を)書くといふ行為への興味を感じたのは、小學校高學年の頃だつたか。いつの間にやら、その興味は閑文字に転じて今に到り、かうして文字にしたら耻づかしくなつてきた。とは云へ事實を曲げるわけにもゆくまい。ヰスキィは無いし、ハム・エッグスから随分と逸れてもしまつたが、これも叉、昔の話である。