閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

237 月呑み

 先日、ラヂオを聴いてゐて、某リスナーからのメールだつたか

「妻と月見饂飩の食べ方がちがふ」

といふ話題があつた。リスナー氏は最初に卵を溶き、饂飩に絡めながら啜り、奥方は卵を最後まで残して、おつゆと一緒に食べるのだといふ。

 ほほう。

 成る程。

 色々な食べ方があるものだなあと思つた。さう思つてから我が身を振り返ると、そのリスナー夫妻とまたちがふ食べ方で月見饂飩を啜つてゐたことに気がついた。

 最初の二口三口までは玉子に手をつけない。

 それから黄身を少し、崩す。

 但し、混ぜない。

 かうすると、饂飩の部分、玉子が絡んだ部分、おつゆに混つた部分と、混りきつて仕舞ふまで、味のちがひと変化が樂しめる。“正調 月見饂飩の正しい啜り方”なのかどうかは知らないが、一体に生卵を乗せる食べものは、卵を崩しきらず、混ぜきらない方がうまい。

 卵かけごはん然り。

 カレーライス然り。

 例外にしていいのは、鋤焼きに添へる生卵くらゐではないだらうか。卵は念入りに崩し、丹念に混ぜる方がうまいのだといふ主張だつて、あつていいとは思ふけれど。

 話を戻して、月見は饂飩に似合ふか知ら。わたしは蕎麦の方が似合ふし、旨いとも思ふ。東京風の濃いつゆと蕎麦の黒々しさに、卵の鮮やかな黄いろが映へてこそ、月見だなあと感じられる。本当は少し、白身は固まりかけが望ましいし、ひと刷けのとろろ昆布があればもつと好もしい。

 かういふ気分は卵かけごはんでもカレーライスでも(残念ながら)感じられない。優劣や旨いまづいでなく、気分の話なのは念の為。ぢやあその気分は何なのだと訊かれさうだが、そこは簡潔に

「月に叢雲」

と応じたい。我われは丼に浮ぶ月を食べる。それはまつたき満月であるより、あはい雲に覆はれてゐる方が、伝統に則した姿ではあるまいか…と考へると、冒頭のご夫婦の場合、最後まで卵を残す奥方が、より好ましい姿なのかと思へてくる。ただそれだと、月を呑み込むことになつて、風情も何もなくなつて仕舞ふ。

 妖怪ぢやああるまいし。