閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

396 数自慢

 或日ふと気になつて、手元にある丸谷才一の文庫が何冊あるのか数へてみた。三十二冊あつた。内訳は以下の通り。

 

朝日文庫  一冊

講談社文庫 二冊

新潮文庫  四冊

ちくま文庫 三冊

中公文庫  三冊

徳間文庫  一冊

福武文庫  一冊

文春文庫  十七冊

 

 『忠臣藏とは何か』と『闊歩する漱石』と『輝く日の宮』(いづれ講談社系の文庫)が何故だか見つからないから、それは省く。

 文春文庫が十七冊。比率にして五十五%だから多く感じるが、丸谷が晩年まで『オール讀物』誌で連載してゐた事を思ふと、妥当とも云へる。

 定価の合計は一万八千四百五十七円で、平均は五百七十六円。その中で文春の『食通知つたかぶり』が最も廉価な二百六十円。一ばん高額なのはちくまの三冊でいづれも千円。尤もこの数字は消費税と古本で買つた値段(愛讀者よ、許し玉へ。絶版もあつたのだ)を考慮してゐない。だからわたしが払つた金額そのものではないが、単純な平均額で考へても随分と安い。数は全然ちがふのだが、吉田健一の文庫は七冊持つてゐて、定価の合計が五千七百十一円(一冊あたり八百十五円強)なのを思ふと(吉田だつて相当に廉なのだが)、割安だなあとの感を禁じ得ない。

 更に凄いのは、三十二冊ならそれなりの数を讀んだと云へる筈なのに(単行本も二冊か三冊は讀んだから實数はもちつと多い)、それでも未だ讀んでゐない著作が何冊もある。思ひ出すままに挙げれば『後鳥羽院』や『日本文学史早わかり』、『持ち重りする薔薇の花』がさうだし、『ボートの三人男』や『ユリシーズ』、或はポーの翻訳、様々な対談と鼎談、編輯に携つた種々の本をそこに含めると、目が通つてゐない方が多いのではなからうか。丸谷才一には寡作のひとの印象が強いが、また長篇小説に限ればその通りでもあらうが、随筆家、批評家、翻訳者、編者の面を忘れてはならないし、そこを含めれば、寧ろ膨大な著作を遺して呉れたと見る方が正しい気がする。

 膨大と云つても(文庫に限つた)単純な冊数なら、司馬遼太郎池波正太郎の方が多いと見る事は出來る。当り前の話で司馬は『坂の上の雲』と『竜馬がゆく』がそれぞれ全八冊、『国盗り物語』が全四冊。池波の『真田太平記』は全十二冊だから、これだけで三十二冊になるもの。丸谷の場合、翻訳を除くとひとつの著作が分冊になつてゐないから、かういふ比較は数のトリック…誤魔化しと呼んでよく、統計的な数値のあやふさはこんなところにも垣間見える。

 といふより、文學を数値で示す事に何かの意味があるものだらうか。勿論これは反語の気分で云ふのだから、わたしは明快に否と応じたい。アメリカで小説家のパーティが開かれた時、ある中堅作家(男性)は隣にゐた若い女性を相手に小説の話を續けてゐた。會がお開きになる頃、反対の方にゐた中年の女性が話し掛けてきて

 「小説のお話が出來ず、残念でした。私も一冊、小説を書いた事がありますのに」

 「おや何といふ小説を書いたのでせう」

 「ええ、『風と共に去りぬ』といふ本を」

ゴシップだから眞偽の保證はしませんが、マーガレット・ミッチェルがその短い生涯で公にしたのは確かにあの長篇小説きりである。彼女の一冊と件の中堅作家の百冊をその数で比較しても意味をなさないでせう。丸谷才一を長篇小説家として見ればまつたくの寡作であつたが、だからといつてその長篇小説は(近代)小説群の中で無視してはいけないのも事實である。話が広がつて逸れさうだし、ミッチェル女史のゴシップも書けたから、一旦立ち止まりませう。

 併し明快な否を示した後だから少々云ひにくいのだが、数で取り纏める意味は無くても利点はあるもので、ある特定の作家を自分がどの程度讀んでゐるかの目安にはなる。数をこなせばえらいのではないにしても、その作家を好んでゐるのか、その作家の著した特定の小説(或は随筆や評論)を好もしいと感じてゐるのかが何となく解る。丸谷才一について云へば、小説も随筆も評論も讀んでゐて…このひとは時に随筆と評論を平気で混ぜるのだけれど…、詰りわたしの興味は"小説作法"や"男泣きについての文学論"(評論の円に随筆の円が重なつて實に面白い。是非時間を作つてお讀みあれ)、或は『女ざかり』に限られてゐない。といふのが利点の第一。もうひとつは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に

 「おれはこれだけ讀んでゐるんですよ」

と自慢出來る事。自慢してどうするのだと訊くひともゐるだらうがそれは誤りと応じたい。何故かと云ふに自慢は何かの手段ではなくそれ自体が目的だからである。仮に丸太撰の編輯で"閑文字手帖流 丸谷才一讀本"が完成したら、その時に讀んだ量は手段として自慢出來るだらうが、既に述べた通り、未讀が多すぎる。また外の作家でも数へて較べれば、何かしらの傾向が見えるかも知れず、それが上手く纏まれば数自慢が目的から手段になるかも知れない。知れないが形を成してゐない以上はもしもの域を出ない。なのでこの稿では自慢を目的とするに留めおく。