閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

485 うつかり(續々)

 併しレンズは肴にするより使ふのが本來である。お酒を四杯呑んでなほ余裕があつたわたしは撮れるものなら何枚か撮る積りになつて、ふらりと歩いた。夕方の残照が間もなく夜にならうとする時間帯は、ひとの動きの緊張がほぐれてゆく時間帯、盛り場が目を覚ます時間帯でもある。

 (エエものやな)

さう思つた。ひとが社会ノ人、会社ノひとから、ただノひとに戻る云はば狭間であつて、わたしは人びとより先に、その狭間を抜けた。スナップを撮る気にはなれなかつた。なれなかつた事情はよく判らない。前々から苦手ではあつた。三昧の境地に入りにくいのは確かで、ある友人などは

 「数だよ、数」

だと云ふ。いはく、百枚二百枚撮つて、まあこれはと思へる一枚があればいいさうだから、凄いものだと思ふ。撮らうとする意思と偶然の関係で云へばその通りなのだらうが、無念無想で百枚を撮るには、その前に廿枚卅枚を撮らないと、その域まで達せない。達した後の百枚にこれならと思ふ一枚があるかと云へば甚だ疑はしく…要するにわたしはスナップ冩眞を撮るのに不向きなたちなのだらう。劣等感の顕れではない筈だが、自信は持てない。

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 ぼんやり考へてゐたら、見知つた看板に灯りがともつてゐるのに気がついた。前回と同じく立ち呑みで、こつちは葡萄酒を主に扱つてゐる。開いてゐるんだと思つて入ることにした。カウンタの奥の方に誘導され、こちらの顔を覚えてゐたらしい若いバーテンダーが、いらつしやい今晩わと聲を掛けてきたから、[ティオ・ペペ]を

 「トニック・ウォーターで割つてくださいな」

と註文した。隣には外國人の三人組…小柄で中々の美女、細身のとがつしりした男性…とがゐた。グラスの形をちらりと見るに發泡酒…訂正、シャンパーニュ系らしい。乾盃をして、三口ほどで呑み干した。やるねえ。ざる蕎麦の食べ方を講釈した迷亭先生みたいだ。どこの國のひとだらう。話を聞いてゐてもはつきりしない。ドイツではない。フランスでもなからう。音から察してスペインかポルトガルかイタリーかとも思つたが、英語のやうな音も混ざつてゐる。どうしても我慢出來なくなつて、エクスキューズ・ミー。

 「どちらから來られたのですか」

さう訊くと、細身の男性が大きく笑つて

 「日本に住んでゐます」その後惡戯小僧のやうな顔で「もう十年かな」

 と云つたからびつくりした。さうしたら美女が、この日本人(わたしのことだ)が知りたいのはさういふことではないのねと解つた顔つきで

 「私とかれ(がつしりの方を指して)はイタリア人。(細身を指して)こつちはスペイン人」

なのよと教へて呉れた。どんな関係なのか知らと思つたが、それは口にしなかつた。幾らわたしが図々しい小父さんでもその程度の礼儀は心得てゐる。イタリア男は喋らない。妙なちびの日本人を怪しんでゐるのか、単に日本語を操るまでに到つてゐないのか。不愉快さうな表情ではなかつたから、後者なのだらうと決めつけておく。それで何とも下らない話を色々と聞いた。ことにイタリア美女がサイゼリヤは中々美味しいですねと云つたのには驚かされて(スペイン男からは、バルセロナのパエーリアは観光客向けだから食べなくていいといふ貴重な情報を得た)、彼女が好むサイゼリヤの献立を聞きそびれたのは失敗だつた(本心だつたのか知ら)そこで彼女に(イタリア男が教へて呉れるとは思へなかつた)に、イタリー人は日本のナポリタン・スパゲッティやたらこを乗せたピザをどう思つてゐるでせうと訊いてみたら、あれはあれでいいと思ひますと応じて呉れた。今住んでゐる國への礼儀を忘れないのだなと感心すると言葉を續けて

 「トスカーナナポリとローマでは、スパゲッティもピザも全然ちがひますもの」

ださうで、もつと感心した。まことにはつきりした郷土愛の發露と云ふべきで、トスカーナ(町の名前を出した順から云つて彼女はトスカーナ人と思はれる)のスパゲッティやピザに較べれば、ナポリだらうがローマだらうがトーキヨーだらうが、あつてもまあかまはないと思へる程度なのだらう。

 さういふ話を聞き、また笑つてゐると、新しいお客が入つてきた。ふたり連れだが、アベックには見えない。女性はきつと既に呑んでご機嫌麗しうなつてゐる。早速賑やかに喋りだして、どうやら連れの男性はその日が誕生日であつたらしい。併し女性にはそれをお祝ひしてゐる気配がない。どうもそれを呑みに行く切つ掛けにしただけらしく、切れ切れ耳に入る話だと同じ会社に勤める先輩(男性)後輩(女性)の間柄と思へる。ははあ、さういふ人間関係もあるのだな。わたしは会社の同僚と個人的に呑んだ経験を殆ど持たない。再びははあと腹の底で唸つてゐたら、イタリースペイン組が引上げさうになつた。そこでふと

 「一枚、撮らしてもらへませんか」

聲を掛けると、快く諾けてくれた。無愛想にも思へたイタリア男がちよいとポーズを決めたのが、何とも可笑しかつた。撮つた一枚を見せておやすみを云ひあつた。それをどうやらアベックではない女性が目にしてゐたらしい。興味本位なのか単に不思議だと思つたのか

 「どうしてカメラを持つてゐるんでせう」

詰問の口調でなかつたのは勿論だが、どう応じればいいのか戸惑つた。咄嗟に気の利いた切返しが出來ないのは大人として如何なものだらう。ありきたりに好きなんですよと云ふに留めた。かういふ時の云ひ廻しを先刻のスペイン男に聞いておけばよかつたと思ひつつ、その序でにモヒートを樂んでゐる彼女にも撮つていいですかと訊いたら、あつさりオーケイが出た。それで撮つたのを見せたら、あら矢つ張り可愛いと笑つてもらへたから、嬉しくなつた。冩眞が上手ですねとは云はれなかつたし、矢つ張り可愛いのは自身のことだから(愛嬌のある女性だつたのは間違ひない)、歓んだのは勘違ひと云へなくもない。最後にギリシアの葡萄酒を一ぱい呑んで引上げた。だからうつかり手に入れたレンズで最初に撮つたのは、偶さか隣あはせた美人たちといふことになつて、まことに幸先が宜しい。