閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

809 渾沌

 沖縄ことばでは"まぜこぜ"を"ちやんぷるー"と云ふ。苦瓜や島豆腐のちやんぷるー…この場合だと混ぜ炒めとか、そんな意味合ひか…は旨いねえ。オリオン・ビールや残波でやつつけたくなる。尤も耻づかしながら、その語源は知らない。元から"ちやんぷるー"といふひとつの単語だつたのか、それとも"ちやん"と"ぷるー"の合成語なのか。沖縄ことば琉球ことばに詳しい方からの解説に期待したい。

 その"まぜこぜ"を漢語にあてると"渾沌"になる。と思ふ。思ふと云つたのは、念の為に確めると、渾沌は元々、古代中國の神話に登場する七つの孔(目と耳と鼻と口)を持たない怪物…別の怪物を手厚くもてなした時、その怪物に御礼と称して七孔を空けられて死んだといふ…の名前だからで、その名がごちや混ぜと繋つたのは、いつ頃で、何故なのだらう。

 冒頭から話が逸れた。

 その辺の何でもかでも纏めて一皿の料理にするのは別に、ちやんぷるーに限らず、たとへばブイヤベースを挙げればいいでせう。粗つぽく云へばあれは、賣れない(市場に出せない)魚介を塩で煮る漁師料理なので、レストランで出すのでなければ、何を入れたつてかまはない。もつと乱暴に云ふならブイヤベースは、食べものを無駄に出來ない工夫から生れた結果と見立てても誤りではなく、我らがちやんぷるーだつてその辺の事情は変るまい。

 本州に目を移し、同様の食べものにもつ煮を挙げても、異論は出にくいと思はれる。諸々の臓物の切れ端、大根と牛蒡と人参と蒟蒻。焼き豆腐や厚揚げを入れてよく、鶉や鶏の玉子を奢るのも嬉しい。刻んだ白葱をどつさり乗せたところに七味唐辛子を振れば、麦酒や焼酎の素晴しい友になる。自分でも試しに作つたことがあるが、下煮に恐ろしく時間が掛つたので、それ以來ああいふのは大鍋で作れるお店に任すのがいいと、考へを改めた。

 我が國では味噌か醤油で味濃く煮つけるのが基本で、多分これは明治の獸肉食解禁に際し、肉食に馴染みのうすい人びとが、その匂ひを忌避した…内田百閒は随筆で、少年の頃に買つてきた牛肉の包みに味噌が添へてあつたと記してゐる…習慣が(うつすら)残つてゐるのではなからうか。明治大正のもつ煮なんて、傷んだ臓物を使つただらうから、味噌で煮て葱をあしらふのは、正しい対処だと思はれる。尤も味噌で煮る技法は鎌倉期に成り立つてゐたさうだから、獨創といふより(伝統の)(見事な)転用と呼ぶのが適切である。

 檀一雄風に云ふと、近年のもつ煮は清潔な食べものになつて、"新鮮な捌きたて"を賣りにするお店もあると聞く。だつたら味噌煮醤油煮にこだはらなくてもいい。塩もつ煮だつたか、そんな名前を見た記憶もあるから(食べたことはないけれど)、少くとも必然性は薄れてゐると云つても、乱暴な意見と非難される心配はあるまい。さうなつたら味噌醤油塩…和風の味つけでなくても、いいんぢやあないかと思へるのは、当然の気分と云ひたくなる。

 安直に浮ぶのはトマト煮だが、麦酒煮や葡萄酒煮も旨いと思ふ。焼酎と黑糖で薩摩風、ビーツを用ゐたロシヤ風…要するに世界各地の"肉の煮込み料理"は、もつ煮に応用出來ると考へていい。大鍋がずらつと並び、色々な仕立てのもつ煮を食べさせる(勿論それぞれに適ふお酒も用意した)場所があれば、さぞ壮観、複雑、そして渾沌を感じるにちがひなく、七ツ孔のすべてで味はひ樂みたい。併し気持ちよく醉へるのは確かとして、きつと渾沌怪物から妬まれてしまふ。