閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

647 文明開化の味がする

始、

 原形は西洋の料理にある。

 日本の調理法による(時に大胆な)変更が施されてゐる。

 ごはんとお味噌汁とお漬ものと一緒に食べる。

 以上を満たす食べものを、この稿では(便宜的に)洋食と呼びたい。ごく簡単に、日本化した西洋料理と云へば済みさうな気もするが、尤もらしさを気取る方が面白い。

 

壱、

 云ふまでもなく洋食の成立は明治以降になる。日本史を俯瞰して、おそらく明治の前期から大正の初期にかけての半世紀余りが、食卓の最も変化の烈しい時期だつたらう。

 たれの説だつたか、令和の日本に残る風俗習慣は、おほむね室町期に遡れるといふ。成る程、数寄屋造りだの利休の茶道だの小笠原の礼法だのを思へば正しい見立てか。詰り明治以前には、その二世紀余りに渡つた室町の時代と、續いた天下泰平を含めてざつと五百年の伝統があつた。

 五百年といへば、ローマ帝國で云ふと、アウグストゥスの登極から、西帝國が崩壊する辺り。栄耀栄華を誇つた帝國が蕃族に喰ひ散らかされるまでとほぼ同じ期間と考へれば、五百年の長さは想像出來る。

 日本だつてその五百年の間に戰國の時代があつたよ、と指摘されさうな気がする。間違ひではない。ないけれども、我が國の戰乱は、相手の依つて立つところを根こそぎ擂り潰すまでは到らなかつた。良し惡しとは別に、その結果が連面と續く日本の文化の苗床になつたと云つていい。

 

弐、

 お米。蔬菜。魚介。獸肉。

 焼く。煮る。蒸す。干す。漬ける。

 塩。味噌。醤油。酢。

 五百年間の食卓は精々がこの組合せだつたと思ふ。砂糖は贅沢な嗜好品だつたし、炒めものを作るには道具も燃料も設備も貧弱すぎた。まして冷しかためるなんて、殿上人か余程の豪商でなければ、想像も六づかしかつたらう。

 

余の壱、

 (ここで少し余談。併し我が國の"冷たいごはん"は平安の頃まで遡れる。贅沢に飽きた貴人に、焚いたごはんを清水で洗ひ、笹の葉に乗せて差し上げた下人が、"源氏の風流を解してゐる"と褒められた話がある。この源氏が、源氏物語を指すのは云ふまでもない。笹の緑にごはんの白は、目に涼やかな組合せだと思へるが、うまいものかどうか。余談終り)

 

参、

 限られた材料を限られた設備と技術で、更に限られた調味法で作らればならない食事を、だから貧相だつたと考へるのはおそらく誤りである。旨いものを食べたい。といふ慾求は人間である限り、普遍的な感情だもの。

 我われのご先祖は色みや香りに、その工夫を見出だした。もつと云へば、器や調度品、建物、さういつたところも含めて食事を作り上げてきたのだから、止む事を得ない一面があつたのは認めるとしても、大したものだと思ひたい。

 

肆、

 呑み喰ひの描冩に熱心だつた小説家と云へば、池波正太郎を筆頭に挙げるのは当然の態度である。余分なことを云ふとまつたく下手糞だつたのが司馬遼太郎で、『街道をゆく』だつたか、山奥を目指す道筋の定食屋で、刺身定食を註文したと書いてあつたのは呆れたのは忘れ難い。どうやらその頃のわたしは、世の中には食べもの…食べることに興味の薄い人間がゐると、考へてゐなかつたらしい。

 池波に戻ると、記憶に鮮やかなのは、藤枝梅安が白魚だつたか鯊だつたかを酒と醤油でさつと煮つける場面。秋山大治郎が麦飯と根深汁に鼻をひくつかせる場面もいい。いづれも江戸の中期以降が舞台("鬼平"ものもさうである)だから、"日本の呑み喰ひ"がおほむね調つた頃である。野兎の団子汁だの、肋ごと叩いた鯉の肉に熱いあんをかけまはしたのだの、實に迷惑…訂正、旨さうな食べものは、云ふまでもなくお酒に似合ふ。令和の呑み屋で出しても、悦ばれさうだし、わたしならきつと悦ぶ。尤も率直に云ふと、今の目で見て、格別に凝つた料理とは呼びにくい。それが贅沢で特別に思へるのは、池波の筆力があつてなのは勿論として、安定した味はひを想像するからかと思はれる。

 

 当り前である。梅安先生や秋山親子や長谷川の頭目が舌鼓を打つたのは、室町以來の工夫と伝統を背骨に持つた食べものなのだもの。室町の子孫である我われの意識の奥底を刺戟しない筈がない。

 さう考へた時、西洋の料理が一ぺんに流れ込んできた明治人は何を感じただらうと、視線が遠くなる。麺麭とハムとソーセイジが入つてきた。麦酒と葡萄酒が入つてきた。カットレットやクロケットも入つてきた。それは焙つた厚揚げに似てゐなければ、焼いた鰯にも、小芋と青菜の煮ころがしにも似たところを見つけるのが困難で、云ふまでもなくお酒に適はない味でもあつた。

 文明開化の味がする。

 などと粋を気取れたかどうか、怪しい。比較的にしても早く馴染めたのは、都市部の若ものと軍隊…ことに海軍に入つた人びとでなければ、欧米との交渉を担当した面々くらゐではないかと思ふ。だつてそれが文明といふものだ。かれらはさう信じてゐたにちがひなく…百五十年後に生きる我われとしては、ちよつと待つてもらへませんかと云ひたくなるね。あなたたちの後ろにある五百年だつて、間違ひなく文明だつたのに、何故古着を脱ぎ捨てるやうに、投げ出して仕舞つたんです、と。

 

余の弐、

(妄想ひとつ。幕末の頃、フランスは徳川に肩入れすること甚だしかつた。水戸學に染つた徳川慶喜が、京都への恭順の姿勢を崩さなかつたから、歴史は既知の通りになつたが、仮に内戰も辞さずと腹を括つてゐれば、幕軍にも勝ちの目はあつた。詰り徳川主体の中央集権國が成り立つた可能性が出てくるし、それは漠然とした西欧ではなく、フランスの影響が飛び出た性格になつたとも思はれる。さうなつた日本の食卓や飲食の習慣はどうなつてゐただらうか。幕軍が戰に舵を切つた場合の現實的な想像をすると、薩長を支持したエゲレスが出てくるだらうから、内戰はそのまま、英佛の代理戰争になつたとは思ふけれど。妄想終り)

 

伍、

 勿論そこに同情の余地はある。当時の日本人…少くとも教養のある一部の層に共通してゐたのは

 このままだと日本は西欧に膓も膏みも喰ひ尽くされる。

 今の日本が持つてゐるものでは太刀打ち出來ない。

要するに恐怖感だつた。それで西欧を取り込んで、追ひつけばいい、と發想が裏返つたのは、兎にも角にも急がねばならんといふ焦燥ゆゑであつて、明治の孫曾孫玄孫たちは、その時代の人びとをあはれんでいい。それでもなあと云ひたくはなるし、そこから考へを踏み進めるのは大切だとしても。

 ただその一方、教養の無い…やや訂正、教養の低い大多数の当時の日本人は、迷惑しか蒙らなかつたのではないか。中でも町中の蕎麦屋だの、一膳めし屋だのは、カットレットやミルクを使つたクリームと云はれたつて、何が何やら解らなかつたに相違無い。仮に見当がついても、材料もノウ・ハウも、その手掛りも見当らない。英吉利で食べた、馬鈴薯と牛肉と玉葱を煮たのが旨かつたから、作つてくれと云はれた料理人の困惑や如何に。

 参考までに云ふと、これは鎮守府で閑職に就いてゐた東郷平八郎の求めであつた。後の元帥閣下は薩人だから、具体的な味の説明を飛ばして、旨かモンぢやつた、くらゐしか云はなかつたらうな。厨房では悩みに悩んで、牛肉の切れ端と馬鈴薯と玉葱を甘辛く焚いて、食卓に用意したといふ。これが現代の肉じやがの原型…とは神話の域を出ない話だが、同じやうな伝説乃至逸話は舞鶴に限らず、港町と洋行帰りがゐた町では幾らもあつたと思へる。蕎麦屋や一膳めし屋はきつと、困つただらうな。

 

陸、

 尤も蕎麦屋や一膳めし屋も、困つたと腕組みをしたまま終つたわけではない。失礼を承知で云ふと、下層民は生きるのにしぶとい。同じものは無理としても、手に入る材料と調味料、目の前の設備と道具で、"擬き"を作るくらゐは試しただらう。まあ大半は失敗だつたにちがひないが、小さな成功があれば互ひに眞似しあつたのは疑ふ余地がない。眞面目な料理人は眞面目に學んだのは同じくらゐ、疑念の余地がないとして、いづれにしてもかれらの基盤にあつたのは、室町に端を發し、江戸が洗練さした調理法だつたと考へていい。何せ他にお手本が無かつたのだから。

 それが幸運だつたのか、不幸だつかのかは考へまい。

 兎も角も、さうであつたのだし、それが洋食といふ特異な調理…食べものに到つたのだと理解しておけば宜しい。でもなければ、ハンバーグに大根おろしを乗せ、とんかつとカレーとライスを合体させ、チキンカツと蟹クリーム・コロッケとオニオン・フライをひと皿に纏めたりはすまい。かう云ふ時わたしは勿論、そのスタイルを褒めてゐて、ことにミックス・フライとか盛合せと呼ばれるあのスタイルは、まつたく日本的ではないか。思ふに江戸をお手本に西洋料理を眞似たのはいいが、どんな風に出せばいいのか見当がつかず、料理屋でお膳に一人前を乗せて興したのを参考にしたのではないか。本邦のミックス・フライ史には不案内なので、想像に過ぎないが、何もかもの丸ごと直輸入が無理だつた以上、蕎麦屋や一膳めし屋が、生き残る為に前時代の手法を取入れたとしても、寧ろ当然かと思はれる。

 

漆、

 さてでは。さういふ背景といふか事情を背負つた洋食が、凄まじい速さで發達しまた洗練されたのは何故だらう。

 第一は矢張り背景それ自体を挙げる。膨大で分厚い基礎があれば、転用応用も樂とは云はないにせよ、手古摺る度合ひは多少、小さくはあつたと思ふ。

 第二には速度を挙げるのがいいと思ふ。情報…もつと露骨にノウ・ハウと云つてもいいが、その伝達のが前時代に較べれば桁違ひに速くなつた。現代のやうな権利の意識は稀薄だつたから、盗み盗まれも繰返されたらう。

 新機軸や話題や人気や流行が、嗜好の変化のフィルタになるのは当然である。過去にもそれはあつた。ただそれは五年十年を掛け、百年後にやうやく明かになる程度の緩かさでもあつた。食事…もつと大きく文化は本來、それくらゐの熟成期間を求める性質であると考へてもいい。

 そこで第三の條件として、世界が拡大したことも挙げておきたい。ここで云ふ拡大は何も、イギリスフランスドイツアメリカロシヤに限つた話ではなく、國内も含まれる。江戸期の日本は外ツ國に対しては勿論、三百諸侯が互ひに往き來を止めあふ、云はば二重の鎖國状態だつたことを、我われは思ひだす必要がある。

 

余の参、

(またも余談。内向きの鎖國には、國内に張り巡らされた海路といふ例外があつた。廻船は米や綿花や布、干鰯を運ぶことで、日本の広く緩かな経済圏を作つた。明治の日本が既に前近代的な資本主義を持つてゐた一因と見ていいが、この稿では寧ろ、廻船が書物や諸國の動向、噂話…詰り情報も運んでゐたことに注目しておかう。見方にはよるが、開國と維新の一面には、國内にあつた前近代の拡大コピーがあるとも云へなくはないか。余談終り)

 

終、

 思ひきつて云へば、二重の鎖國の箍が弛んだところに打ち込まれた鏨のひとつが西洋料理であつて、それ乃至それらが恐怖混りの時代の昂奮や、東京政府の欧化の方針と相俟つて猛烈な変化の速度を生んだ。と考へたい。實際はそこまで単純に纏められないだらうけれど、學術的な網羅はこちらの任ではない。篤學の士に、洋食の揺籃と変化そして發達などと題して、一冊著してもらひたい。わたしはそれを讀み、感心してから、食事に出掛けたい。勿論洋食。大根おろし乗せハンバーグとチキン・ソテーとオニオン・フライの盛合せを定食のスタイルで、壜麦酒の一本を奢るのも忘れず。それはきつと文明開化の味がするにちがひない。