閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

385 本の話~豊穣な世界の設計図

『横しぐれ』

丸谷才一/講談社文庫

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 丸谷才一はわたしにとつて(いやわたしひとりに限つた事でもなからうが)、先づ長篇小説家の印象があつて、批評家や随筆家の側面はその後に續いてゐる。かういふ見立ては本人にすると不本意だらうなとも思ふのだが、染み込んだ印象は今さら如何ともし難い。

 

 その印象のまま讀むと、何とも不思議な感覚にとらはれる。この文庫版(昭和五十三年發行)には四篇が収められてゐて、表題にもなつた“横しぐれ”は中篇小説と呼べるくらゐの長さでしかない。

 亡父の思ひ出話にあらはれた乞食坊主が、もしかすると種田山頭火だつたかも知れない。本当にさうだつたのか。さういふ疑問を抱いた中年の國文學者(専門は中世和歌)の獨白で話は進む。

 

 巧妙な仕掛けである。

 

 國文學者である以上、日本の短詩について、一定の鑑賞眼を持つてゐると考へられるし、中世が専門なのだから、近代の山頭火の事をよく知らなくても無理はない。その上文學の筋から興味を抱いても不自然にはならず、詰り思ひ出話の考證に到る流れに説得力がある。

 更に専門外の事を調べこんでゆく態度も精緻且つ實證的に感じられて、時々見落しがあるのも含め、學者とはかういふ生きものかと、無邪気に納得がゆく。この辺りは丸谷じしんの体験が大きく関つてゐるのだらう。かれは大學で教鞭を取つた事がある。専門は英文學だつたが、資料に当り、推測を立て、修正を重ね、結論に到らうとする過程は同じ骨組みだつた筈だし、王朝和歌を偏愛してもゐたから、書くのに苦痛は(少)なかつたらう。

 

 疑問…謎を立てて、それを解く、解かうとする筋立ては一体に丸谷が得意とする手法である。『女ざかり』では新聞社の女論説委員が突然に巻き込まれた左遷騒ぎが、『輝く日の宮』では源氏物語の幻の帖がそこに据ゑられてゐる。探偵小説のやうに。尤も丸谷は解を重視しない。いや重視しないのではなく、解の提示が小説の終り…クライマックスとは限らないと云ふ方が正確か。この中篇小説でも、國文學者の父は本当に山頭火と出会つたのかどうかより、その鍵になる“横しぐれ”といふ言葉が持つ

 

 (宮廷和歌の)正統思想、古典趣味、保守主義と決定的に対立する何か直接的なもの、露骨なもの、粗野なもの

 

またそれは

 

 確かに比類なく美しい言葉だし、一見それだけで一篇の詩を(沈黙の詩を)形づくりさうに見えるけれども、それだけではつひに詩ではなく、詩の破片にすぎなかつた

 

事に我われは驚かされ(その過程は時に躓き、混乱もする。それは語り手の躓きや混乱でもあるのだが、我われの思考もまたそんなものではないか)、山頭火も亡父もその友人である黒川先生も、暫し頭の隅に追ひやられる。丸谷が仕組んだ謎は、父の過去だけでなく、文學的な疑念でもあつて、両者は絡みあひ、讀者を戸惑はせ…詰り讀書の愉しみといふ時間を提供する。

 尤も後年の長篇小説を再讀三讀した後だから云へるのでもあるが、構成は力強さが足りないし、生硬な書き方(ことに山頭火の分析に熱中する場面は、改行や言葉遣ひが、寧ろ評論に近しい)も散見される。率直なところ、面白いけれども未完成と云はざるを得ない。急いで念を押すと、その未完成は、強靭な構成と豊かな謎、数々の冗談とゴシップで花やかに彩られた長篇に繋がつてゆく。本人の意識にあつたかどうかは別として、この中々讀ませる小説は、來るべき世界の設計図の役割も果してゐた。

 

 余談ひとつ。

 巻末の年譜によると丸谷は大正十五年生れ。昭和と年齢が一致するひとであつた。發表は昭和四十九年の『群像』誌七月號だから、当時四十九歳といふ事になる。今のわたしより年少だつたのには一驚を喫した。