閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

434 ばら寿司について

 仄聞するところだと、岡山のばら寿司はたいへん豪華だといふ。その昔お殿様が

 「倹約をせンならンけの。町民の食事は一汁一菜ぢや」

と御触れを出し、それで町民輩が

 「一菜なら、お咎めは受けンのぢやらう」

耳打ちしあつたかどうかは兎も角、ばら寿司の具に凝りだしたのが切つ掛けだといふ。重箱の底に贅沢な具を忍ばせて、役人の目を誤魔化す。仮にばれても

 「一菜で御坐いますけん」

で押し通しただらうな。その重箱をお皿の上で引つくり返せば、ばら寿司の絢爛な姿が現れるわけで、巧妙な盛りつけには喝采が贈られただらう。

 尤も旨いものだつたか知らと疑問は残る。旨いのンは大事やけンど、先づは豪奢にせんならン、といふ雰囲気を感じなくもない…などと書くと、叱られるだらうが、一体総花式のご馳走には、さういふ気分が纏ひつくもので、一ぺんは食べてみなくてはなるまいか。

 

 ここで吉備の人びとは、一汁一菜の汁に目を向けなかつたのだらうかと、少々不思議に思へてくる。魚介に恵まれてゐる点で瀬戸内は日本でも第一等の地域で、かれらがまさか目を向けなかつた筈はない。ただそれを焼いて煮て蒸して、ばら寿司に入れたのに、汁椀には入れなかつた。何故だらう。勿体無いなあ。

 お米をたつぷり使つて、平気だつたのか。豊かな収穫の期待出來る土地柄ではあつたし、岡山池田家も干拓に熱心だつたらしい。尤もお殿様が期待したのは税収にちがひなく、そつちはどうだつたか。甚だ心許ない。近代以前の岡山は安藝廣島や四國と畿内を繋ぐ、今で云へばハブのやうな土地だつたと思へる。経済が活發に動いてゐても不思議とは云へず、そこで動くのはコメではなくカネで、岡山の米は大坂の米相場を経て各地に運ばれたのではなからうか。その中で

 「倹約せンならン」

池田の殿様が御触れを出したのは、カネを操つて贅沢なめしを喰ふ商人階級への妬心と同時に、前近代に芽吹いた資本といふ得体の知れない怪物への恐怖感も含まれてゐたと想像するのは、飛躍が過ぎるか知ら。

 

 とは云へ、それでも豪華なばら寿司を完成させたところを見ると、商人町人から逼迫した感じは受けない。さうなると改めて汁物にその工夫を転じなかつた(だらう)吉備人の考へが計りかねてくる。出汁の問題ではない。昆布でも貝でもいりこでも、美味い出汁の素は幾らでもあるのだから。さうなると味噌や醤油がもうひとつだつたのかと思へるが、お澄しは既にあつたし、味噌や醤油だつて、遅くても江戸の中期以降にはほぼ完成してゐた筈だから、手を出さない理由にはならない。わたしが知らないだけとも考へられるけれど。

 少し落ち着きませう。

 岡山のばら寿司には乱暴に云へば、お上の無理難題への反發といふ一面があり、社交の道具といふ一面もあつた…といふより、それらの側面の方が濃厚だつたと見る方が正しからう。豪奢は特別な日…祭礼や祝ひ事を飾ればよく、普段は質素だつたと考へる方が、實態に則してゐる筈で、特別な日の豪奢をもつて、或る日の晩めしの汁物を想像するのは

 「すりやあ、間違ひぢやのウ」

さう吉備人に笑はれても仕方がない。それに汁物に種々の魚介をあしらつても、ごちやつくだけで花やかさに欠けるだらうと思へもする。

 

 そんなら(とこの辺からやうやく本題と思はれる方向に入るのだが)吉備ノばら寿司のやうな汁椀は無理なのだらうかと云ふと、直ちに

 「そんな莫迦を云ふものぢやあない」

とお叱りの聲が飛んでくるにちがひない。確かにそのお叱りは豚汁と粕汁を思ひ出せば證明は綺麗に成り立つて、わたしも全面的に同意する。ことに豚汁は大ご馳走で、大振りなお椀から溢れさうになつたのと焼酎があれば

 「儂ア外に、何も望まン」

などと高らかに宣したくなる豪華なお椀と云つていい。ただこの"豪華なお椀"には大きな弱点…吉備ノばら寿司に較べて…があつて、どうも花に欠ける。ここで云ふ花は彩りの豊かさくらゐの意味で、大根に牛蒡、蒟蒻、人参、豚肉にうで玉子に芋と並べれば、まつたく彩りに乏しい。併し彩りに欠けるのと不味いのが結びつかないのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもご承知の筈で、その辺りの事情無いし心理は、吉田健一が[食物の美]といふ随筆で綺麗に教へて呉れてゐる。それに花やかでなく、繊細でなくても豚汁の豪宕は實質的な力強さそのものであつて

 「かういふのが、よか」

と目を細める薩摩人の姿が目に浮ぶ。島津の殿様が禁令を出したとは思へず、木強モンは皆、歓んでゐたらうな。

 と褒めてから云ふのも何だが、我われの多数派はきつと、偶にならともかく、普段の汁物の種はそんなに慾張らなくてもいい、寧ろお豆腐に油揚げくらゐで十分だから

 「炊きたてのごはんに鯵ノ開き、それと香ノ物を用意してもらへまいかねえ」

と考へるのではあるまいか。焼酎に馴染んでゐれば、話は異なるのだらうが、豚汁は矢張りといふか、残念ながらといふか(少くとも)本州人の食卓には似合ひにくい。ここは粕汁の出番であつて、いやわたしは眞顔で云ふんですよ。

 

 牛蒡に大根に長葱に鮭。

 お豆腐と厚揚げと蒟蒻。

 種を挙げれば豚汁とたいへん近しく、併し酒粕のつくる色みは美しい。吉田に云はせたら"それはね、馴染みのちがひなのだよ君"となるのだらうが、その馴染み深さを侮るわけにはゆかない。ひと椀の粕汁酒粕と同じ藏のお酒が二合あればきつと満足する。炊き込みごはんだの香ノ物だのを用意してもらへれば、歓びがいや増すのは疑ふ余地は無く…さうだ、ここで吉備ノばら寿司に登場願はう。大皿に鎮坐する絢爛なばら寿司。お椀には乳白色の粕汁。池田の殿様に献上すれば、幾ら倹約だつて

 「ま。一汁一菜ぢやの」

お目こぼしをして下さるにちがひない。銚釐で温めたお酒は別にこつそり用意すればよく、なーに、殿様だつて後から一ぱい呑るに決つてゐるさ。残る問題はそのばら寿司粕汁を如何に準備して、たれと舌鼓を打つのかといふ事で、これ計りは相手があつての話だから、この稿で解決するわけにはゆかない。