閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

446 崩す

 この手帖で使ふ画像は殆ど呑み喰ひの際に撮つてある。それについて過日、某氏から

 「段々と藝の域に近づいてゐるのではないかね」

と云はれた。お世辞の成分が濃ささうだし、或はふと思つた程度ではないかとも(何しろ具体的な指摘が無かつたから)考へられるが、何せわたしは他愛ない男である。他愛なく喜んだ。尤も藝を意識してゐたわけではく、今だつて意識してはゐない。思ひ出して気がつくのは、撮り方が毎度ほぼ一定な事で、構図もまたほぼ一定。それで冩つてゐるのが鯖の塩焼きや野菜炒め(肉入り)やミンチカツだから、傍目に

 「何かしら意図するところがあるのではないか」

と思ふのか知ら。だつたらわたしの型に誤魔化されてゐる事になる。まことに他愛がない。その型を(ある程度にしても)作れてゐるなら、そこは褒めてもらつてもいいと書けば、自惚れが過ぎると叱られるだらうか。

 型を作る、持つてゐる、或は型があるのは、有り体に云ふと、ワン・パターンを示してゐる。『水戸黄門』や『遠山の金さん』を連想すれば間違ひない。云つておくとわたしはそれを非難する積りは無い。惡代官と惡徳商人が手を組み、やくざ者を使つて暴利を貪らうとするところを、水戸のご隠居や遊び人の金さんが成敗する…のは、幾らでも転用や応用が出來るフォーマットである。それをどこまで残し、また捻るかがいはば作り手の腕の見せ所で、『水戸黄門』で云へば葵の紋所を見せず、惡代官の上司または殿さまが駆けつけ、御老公さまと平伏するのは、その一例。もう少し複雑な構成を組めば『鬼平犯科帳』、俳優のあくの強さに寄せれば、一連の"座頭市"になる。詰り定型乃至ワン・パターンと、それが面白いかどうかは、丸で別ものといふ結論(遠慮して推測と云つてもいいけれど)が成り立つ。わたしの撮る画像が、そのワン・パターンを得てゐる、でなければ得る可能性があるとして、それを少し崩したらどう受け止められるだらうか。

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