閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

359 格段に不便の無い行為

 眞面目に寫眞を撮らなくなつて、何ヵ月かそれ以上経つ。と書いてから、眞面目に寫眞を撮るのはどういふことだらうと思つた。カメラに触れてゐないのはその通りとしても、毎日のめしはスマートフォンのカメラ機能で記録はしてゐて、それは不眞面目な心持ちではない。寫眞はカメラをかまへて撮るものだと云はれたら、それもまたその通りであるが、カメラをかまへなければ不眞面目かどうかは別の話である。外にも様々の心得はある筈で、それは纏めて認めてもよく、ただどれもこれも、スマートフォンで飲食の記録を撮るのとは別問ですなとは、予め云つておきたい。だから丸太の寫眞は駄目なのだと叱られることも考へられて、併しわたしはたれかに見てもらふ為に撮つてゐるのではないから、柳眉を逆立てられてもこちらが困惑して仕舞ふ。

 かう書いて、その“たれかに見てもらふ”のが急所なのではないかと気がついた。寫眞が寫眞として成り立つ殆ど唯一の條件は、たれかが見て、共感でも反發でもあつた時である。尊敬する植田正治の見たこともない一枚が、鳥取砂丘に埋もれてゐたとして、見られてゐない以上、それは無いのと同じだから、たれかに見つけられるまで寫眞ではない。植田正治伊福部昭に、寫眞を樂譜に変換しても事情は変らない。スマートフォンで毎日撮つて、それを毎日この手帖で公開すれば、それらを寫眞と呼ぶのに躊躇は少くなるし、眞面目に撮つてゐると云ひ易くもなる。それを価値的に寫眞と呼べるかどうかは、更に別の問題であつて、音樂も絵画も詩も彫刻も、それ自体と、それが価値的にどうか…思ひきつて云ふと、藝術かどうかは別枠でなくてはならない。

 併し寫眞を撮らなくてはならないものか。愛好家から睨まれさうだが、云つて仕舞つたものは仕方がない。わたしには普段使ひの手帖(高橋書店製)に何を食べたかを書きつける習慣があつて、スマートフォンでお行儀惡く撮るのは、その場で書けない場合の保険…記憶の補助といふ目的である。スマートフォンを使ふのは、その時に一ばん便利だからで、(コンパクト)デジタル・カメラだと後で見返すのが面倒になる。その程度であるから、かういふのはそもそも、寫眞になる可能性を自棄してゐる。してはゐるが、それで何か不便支障が出るかと云ふと格段に思ひつくことが無い。詰りさういふことなのだらう。断つておくがさういふことではあつても、シャッターを切る瞬間はごく眞面目なので、詰りを重ねると眞面目と寫眞を撮る行為はどうやら無関係らしいことになる。