閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1170 奇妙な半裁の奇妙な冩眞機

 部屋の片隅から、冩眞機が出てきた。

 かういふ形状だと、カメラとは呼びにくい。

 レンズを見ると、Chiyoko Promar.SⅡの銘が判る。焦点距離は七十五ミリ、開放値F三.五。更にKONAN-FLICKERとの刻印もある。正面から見て右側にMinoltaとあり、やつとミノルタなのかと気がついた。

 そこまでは判つた。併し型番が判らない。はレンズ銘と思はれるし、KONAN-FLICKERはシャッターを示してゐる筈で、肝腎の冩眞機じたい、何といふ名前なのか。

 Promar.SⅡを鍵に調べた。どうやらミノルタセミPが該当するらしい。昭和廿六年發賣。マッカーサーGHQの司令官を解任され、赤狩りが猛威をふるつた。きな臭ひなあ。ロビン・ウィリアムズマイケル・キートンが生れ、黒澤明の『羅生門』がヴェネチアで金獅子賞を得た年でもある。

 冩眞機に目を向けると、前年にライカⅢfが出てゐる。同年にはリコーフレックスも發賣され、大ヒットを飛ばした。おそらく戰後の國産冩眞機で、最初の成功例だらう。因みに次のヒットは、昭和卅九年のペンタックスSP、ニコンFまで待たねばならない。

 千代田光學…Chiyokoはその略。なほ"ミノルタ"が社名になつたのは、昭和卅七年から…が、この時期に何故、セミ判(機種名にもある通り。ブローニー六×九判の半裁の意)の機種を出したのか。ライカ判の冩眞機は数年前、既に出してゐたから、造る技術を持たなかつたとは云へない。尤もブローニー判は更に以前から造つてゐた。馴れの度合ひがちがつてゐたとは考へられる。

 併しライカⅢf(昭和廿五年發賣)が市場にあり、ニコンからもSが出てゐた。時代は緩かに、但し確實に、ブローニー判から移りつつあるのを、当時の経営陣が理解してゐなかつた筈はない。目の前でリコーフレックスが賣れに賣れてゐるのを見て、兎に角ひと稼ぎとでも考へたのか。だつたら、二眼レフミノルタフレックスに注力する方が、堅實な対処だつたの思はれて…要するによく判らない。

 判つたのは先づ、レンズのPromar.SⅡ、これは旭光學製のテッサータイプといふ。成る程。であれば、三群四枚構成といふことか。もうひとつのKONAN-FLICKERは、甲南カメラ研究所(令和六年の今も、社名を変へて存續してゐる)が造つたレンズシャッター(バルブと二分ノ一から二百分ノ一秒まで。手元の個体の動作はきはめて怪しい)

 となるとミノルタセミPは、千代田光學の設計で、各社から供給された部品を、取りまとめた機種と見立てられる。現代でなら、ソニーの設計、ペンタックスのレンズ、コーナンメディカルの技術(いきなり出した社名に就ての理由は、想像出來るでせう)を組合せた、コンパクト・デジタルカメラのやうな一台…といふのは、流石に無理があるか。

 さうさう。この機種は距離計を内藏してゐない。その分、恐ろしくコンパクトになつてゐて、漠然とレチナⅢc(可愛らしい冩眞機ですよ、こいつは)が聯想される。とは云つたつて、ライカ判のレチナには、距離計がある。セミ判の目測には、どうも不安しか感じないが、当時のユーザには、それだけの測距力があつたのか、絞り込んで使へばいいと、大して気にしなかつたのか。この辺で再び判らなくなつてくる。

 まあもつと判らないのは、このミノルタセミPが何故、私の手元にあるのかといふこと。ブローニーはEOSから冩眞を始めて以來(ゼンザブロニカS2は買つたけれど、買つただけだつた)、一ぺんも使つてゐないもの。買つたのは勿論、たれかに譲つてもらつた記憶すら、残つてゐない。まつたくのところ、奇妙な話と云ふ他になく、奇妙な謂れが隠れてゐないか、多少の不安を感じてゐる。