閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

484 うつかり(續)

 

 前回の[うつかり]で、パナソニック製レンズを入手したと書いた。時系列で云ふと今回はその直ぐ後になる。一体わたしはカメラに関はる何かしらを買ふのに慎重で、ひとつには慌てて手に入れなくても、平気ぢやあないかと考へるからなのだが、それ以上に購つたらそれを愛でつつ呑みたいと思ふ事情が大きい。この場合に呑むのは外の店を指すから、レンズでも何でも、値札の蔭にある呑み代をこつそり考へなくてはならない。一方で買つた計りの品物が手元にあると思へば深酒は控へる必要がある。詰り比較的穏やかに醉へる期待が持てる。喜ばしい。そこで以前から気になつてゐた立ち呑み屋に入つた。初めてではない。然しいつ頃入つたのかは丸で記憶に無い。過去の画像を引つ繰り返したら判るだらうが、この稿では面倒だから省く。

 ごく狭い。詰めに詰めて十人も無理さうである。先客はふたり。よ御坐んすかと聲を掛けてから入つた。カウンタには品書きが乗せてあつて、奥の棚には焼酎と泡盛の壜が並んでゐる。こちらから見て棚の右隣には冷藏庫。そちらにはお酒が詰め込まれてゐる。所謂厨房にあたる場所はなく、詰り食事には向かない。それは曖昧な記憶にも残つてゐたので、食事は先に済ませておいた。マスターと云ふのか、バーテンダーと呼べばいいのか、カウンタの内のひとが急かしてこなかつたから暫く考へて、[真野鶴]といふ銘柄を註文した。最初の一ぱいは注意を要する。二杯めからの方向が決り、または変るからで、いや別におれは通なのだとひけらかすのではない。新潟の純米酒なら外れはなからうと踏んだんである。薄手で底が丸くなつたグラスで出された。含むと惡くない。惡くはないが期待したほどのふくらみも広がりも感じない。をかしいと何秒か考へ、これは冷しすぎだなと気がついた。掌でグラスの底を包むやうにして温めると、ほんのり香りが立つてきた。成る程。

 先客のひとりはたいへん無口で、にこにこしながら多分焼酎を呑んでゐる。もうひとりは九州の訛りで愉快さうに喋つてゐる。無口なひとが先に帰つた後、何となく九州訛りのひと…福岡人らしい…と話が始まつた。何の話だつたか。帰省は列車で時間を掛けるのが樂いとか、それで呑むのがうまいとか、そんなところだつたと思ふ。喋りながら笑ひながら品書きに目をやると、"チーズの味噌漬け"といふのがあつた。醗酵の組合せだから旨いのは決つてゐて、チーズや味噌がお酒にあふのも決つてゐる。こいつをつままうと思つたので

 「"チーズの味噌漬け"をつまみたいんですが、何をあはすのがお奨めですかね」

と訊いてみた。内側のひとは少し考へてから

 「そんなら山廃がいいでせう」

さう云つて福岡八女の[喜多屋]といふ銘柄を奨めて呉れた。ほんの少し戸惑つたのは、山廃の濃厚がどちらかと云へば苦手だからである。併し大事なのは組合せ(マリアージュなんて気障な言葉はわたしに似合はない)だから、ではそれでお願ひしますと云つた。

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 チーズの色みは寧ろ醤油漬けを聯想させる濃さ。水で口を洗つてからつまむと、果して口当りも味はひも香りも濃い。グラスを温めながら[喜多屋]を含んだら、山廃獨特の濃厚がチーズと實に適ふ。ジャック・ニコルソンロバート・デ・ニーロの共演みたいだ。わたし好みの軽くて切れのよい銘柄だつたら、チーズに押し負かされてゐただらう。プロフェッショナルだなあと感心し、感心しつつ困惑もした。このチーズを[喜多屋]一ぱいで食べきるには惜しい。お代りを呑まざるを得ない。併し[喜多屋]とはちがふ銘柄にしたい。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の為に云ふと、かういふのは邪道の態度である。[真野鶴]でも[喜多屋]でも、舌が納得したら、それを最後まで呑み續けるのがあらまほしい。葡萄酒では無理でもお酒にはさういふ懐の深さがある。わたしはその域に達してゐないし、矢張り山廃系列を續けて呑むのに不安を感じもしたから、[W]を試すことにした。岐阜は飛彈の銘柄。さう云へば三重に[作]といふ銘柄があつたのを思ひ出した。

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 福岡人はいつの間にやら帰つてゐて、そこにはやや関西の訛りがある若いお嬢さんが立つてゐたから、曖昧に挨拶をしながら[W]を呑んでみた。口当りは[喜多屋]より好もしい。ただ軟らかにすぎるのか、チーズには稍弱い感じもした。[W]だけだつたら、もつと褒めたくなつたらうから、お酒と肴の組合せは六づかしい。だとすると、様々な機会で目にするお酒の評価はまつたく信頼し難い。といふことを聲には出さずに考へてゐたら、先刻のお嬢さんが何やらの三点盛りとかいふのを註文した。カウンタの奥、隅の方を見ると"じやこと水菜の和へもの"と書いてあつたから仕舞つたと思つた。好物だからで

 「判つてゐたら註文したのに。三杯と決めてゐるからなあ」

[W]を干しつつ残念がると、お嬢さんが揶揄ふやうな口調で

 「破る為の決め事ぢやあないんですか」

と云つたから大笑ひした。彼女はお代りに[会津中将]を呑んで、あまいなあと呟いたから、決め事を破つてもいいやと思つて、その[会津中将]を註文した。武張つた銘柄には不釣合ひの、あまいといふより、ごく柔かな味はひで、お酒は苦手なんですと云ふ女性を口説くのによささうな感じがした。相手がゐればの話だけれど。或はたつぷり呑み喰ひした後、デザート・ワインのやうにしてもいいだらうな。さうやつて呑んでゐる内に、お客が次々入つてきた。お勘定を済ませ店を出て、入手したレンズを肴にし忘れたと思つた。